2000

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Invitation to Freedom

4、神を知る条件

 

4-3.シンプルになる

普通は目が見えるということは、多くの外部情報にアクセスできるという意味でも、非常に有効な手段であると考えます。聞こえることも話せることも自由に動き回れることもそうです。
しかしこれらはトラップとしての一面を持っていました。あるが故に多くのものに惑わされていきます。自らの内側にある最も大切なものから目を逸らして、実は後天的な結果に過ぎない外側の謎解きに向かって転々と渡り歩いて行きます。

朝起きたときに、自分の布団が乱れていることを確認してやっと、「ああ、わたしは寝ていたんだな」と納得するようなものです。あるいは「わたしは今、機嫌が良いでしょうか、それとも悪いでしょうか」と他人に尋ねることにも似ています。

見えるがために あれも有効じゃないか、ここにすごいことが書いてあるんじゃないか、この秘密が決定打となるのではないか、この人こそが救い主ではないかと情報の洪水に振り回されるでしょう。迷い迷って落ち着くことが出来ません。
うっかりしていると誰かに先に取られてしまうのではないかとも焦ります。もちろん売り切れて無くなってしまうようなものは真理とは言えないでしょう。

外側から音が聞こえ外側に向かって話せるために、内なる声を無視し、内なる対話を後回しにしてしまいます。
物理的に動き回れるために、本当は「わたし」がこれまで一歩も動いていなかったと言うことに気づきません。

 

目が見えなくなるという感覚は、あり得ることだとは理解できても、自分が実際に直面しなければピンとこないのは当然です。それでもゲームとしてならば、たとえば数日前に事故や病気が起こり、自分はそうなったのだという疑似体験をすることは出来ます。
実際にしばらくの時間を費やして目を閉じ、これからずっとこの状態のままなのだと想像します。そして明日からの生活、悩んできた課題、欲望やプライドの行き場所がどうなるかを探ってみると面白い気づきが生まれることがあります。

これまで執着してきたもの、「あれがなければ駄目だ、これだけは絶対必要だ」と思い込んでいたものが、リストからポロポロと剥がれ落ち、重要度トップテンが入れ替わっていきます。
たとえば「わたしはこのブランドの洋服、この化粧品がなかったら生きていけない」としたとき、目が見えなくても本当にやっていけないか。自分の姿を鏡で見られないというよりも、見てくれる人が見えなくなった場合、それは意味を持つだろうかと問えます。
肩書きや容姿、緊張して腰にぶら下げていた刀、あれほどリアルに怒り悩んでいた事柄もそれほど重要では無くなってきます。

そうなってもまだ自分にとって大切なものは何かを見つけ出しておくと、幻想が抜けて非常にシンプルで軽くなります。もちろん服や肩書などきをそのまま持っていてもよいのですけれど、見かけは同じでも以前とは全く違ったつきあい方が出来るでしょう。これは神仏、宇宙を探求するにおいても同様です。

インドの修行者で禅を開かれた、日本でも有名な達磨さんという方がおりますが、彼は九年間壁に向かって瞑想したと言われています。つまり自らの目や耳、手足を放棄しています。その上で残ったものを使って真理と合流しました。

外側にある情報はいろいろな活用法があるにしても、結局は巡り巡った末に「ここ(残ったもの)」にたどり着くための方便に過ぎないと言えます。
好きな人への愛の告白を友達経由で頼むという方法もありますけれど、やはり勇気を出して本人に直接言うに越したことはありません。(^_^)

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