2000

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釈迦の卵

 

ここに100個の卵があって、1個だけがゆで卵、残りの99個は生卵です。ゆで卵を「真理」であるとしたとき、釈迦はそれを直接指し示すことはせずに、人々をあえて生卵の方に導きました。
いきなりゆで卵を示して「これが真理です」と言っても、他にもあるのではないかという迷いが生じます。しかし生卵を全て割って調べてしまえば、消去法で最後にはゆで卵が見つかります。

釈迦の教えはそのままを忠実に守っても生卵しか見つかりません。何年あるいは何世もかけ、いかなる艱難辛苦をも乗り越えて命懸けで教えを遂行しても、得られるのは生卵だけです。そのように意図されています。

真理はタイミングが整って初めて生かされます。正直であっても、ただ力まかせに押し出すだけでは、張り子の虎にしかなりません。

釈迦「衆生よ、怒ってもよいのですよ」
衆生「おいみんな、お釈迦様が怒りなさいと言ってくださったぞ!」
釈迦「いや、怒りなさいではなくてだな・・自由意志における・・」
衆生「よし、こうなったら憎い敵を一気に壊滅だ」「突撃!」ワーッ
釈迦「お、おい、ちょっと待てー」

これではコントですが、機を無視すれば似たようなリスクを伴います。怒りという感情についても、むしろ三毒の一つとして「怒ってはいけない」と言う方向から問題提起をした方が遠回りのようであっても近道になり得ます。

エゴの傾向を逆利用した場合、「どうぞ」と言われれば「いつでもいいや」になりますが、「してはいけない」を基本として負荷・緊張を与えると、従うにせよ反発するにせよ、そこから考えるきっかけを生み出します。

怒りを暴発させて散々な思いをし、次は我慢に我慢を重ねてやはり散々な思いをした後で「怒ってもよいのだ」と気づいた方が効果的です。
最初の二つは誰かや何かに「させられている」こと、最後のは「自分で(選択)していること」になります。

釈迦の意図したものは、生卵を全て確認した後に、ゆで卵を自分で見つけることです。
長い時間をかけて必死に信じ守ってきたもの(99個)を捨て去ることは非常に勇気のいることですが、それによって最後に真理(1個)が見つかります。執着を捨てるという意味では、最大のイベントになるでしょう。

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