3-3.真面目に怒る
怒りから逃げる必要はありません。怒りは悪でも闇でもないし、もちろん恥ずかしい感情でもないからです。怒りという感情を体験するのに、破壊的な行動や我を失って激昂するような肉体表現を抱き合わせる必要もありません。それを「正しい怒り方」や「怒りの定石」とするのは錯覚です。
神が人間に対して何らかの克服すべき課題を与えているとか、神と悪魔が対決しているかのような話は、擬人化した神に対して罪悪感を持て余した人間が創った幻想です。
「怒ってもよい」という発想は、「何をいまさら当たり前のことを」と思いつつも実は新鮮な感覚であり、なかなか信用されないかもしれません。話にどこか裏があるのではないかと勘ぐりたくなるほど、怒りについてはネガティブな価値判断に縛られています。
子供の頃から親や先生などから怒りという感情について叱られることはあっても、誉められたり勧められた経験はなく、宗教的な教義や道徳教育においても強く否定されている上に、実際にそこから派生したとされる数々の否定的なドラマを自分でも目撃しているので、感情のあり方について「べきだ、べきではない」という思い込みが定着してしまうのも無理はないと言えます。
「俺はいつだって怒りたいときは怒ってるぞ!」と力説する人ほど、実はそれを信用しているわけではなく、後ろめたさの裏返しとして世間向けにアンチを演じているだけの場合もあります。そうではなくて、本当に怒ってよいのだということです。
ここでは正確さが必要であり、「さあ、どんどん怒りましょう」では意味が違います。それではまたもや義務や「べき」です。感情を体験するのに誰かの要求に従ったり、お伺いを立てなければならないということはありません。
そうではなくて「怒ってもよい」、つまり主体的で自由な選択による怒りです。怒ることを堂々と許しています。「怒らなくてもよい」とも対等です。
誰かに怒らされているのではなく、自分が望んで怒りたくて怒っているのだと知ることは、旧来の方法に頼ることなく無害なままで、かつ有意義に怒ることをも可能にします。
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