1997

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[12.22/煤掃除]

宇宙とつながっていて今に生きている状態は「起きている状態」、エゴの動きにふらふらと盲従している状態は「眠っている状態」と言えます。
眠りに落ちてエゴに傾いているときに、体がいろいろな形で内側からの注意信号を伝える役割をしているのに気がつくことがあります。
これに関して、ちょっと恥ずかしい話ですが最近体験したことを書きます。

あるときメールを送信した直後に、どうも胸の辺りがムカムカするような感じがして、「おかしいな?」と思って、念のために自分が送ったものをもう一度読み返してみました。
ぱっと見た段階では、やはり文面におかしなところはありません。漢字も特に間違っていないし、でも何かが変だ・・・。内容はまあ、よく出来ているか・・・いや、よく出来過ぎている?
見栄えのいい言葉が散りばめられた立派な外装とは裏腹に、どこか空虚な感じがします。「心」が抜け落ちていました。とてもリアルな蝋製の食品サンプルです。もう一度注意深く読むと、そこにはエゴのカビがたくさん生えていることに気づいて愕然としました。
どこか説教臭いような、上から見ているような、また知識自慢を披露していたり・・・上手にオブラートには包まれていましたが、独特の「「におい」は隠せません。それに対して内側が警鐘を鳴らし、体が「ムカムカする」という形で反応しました。
書いているときには自分ではそんなつもりはなかったし、普通のつもりだったのに、そうなってしまいました。エゴに言わせれば「相手のためを思って」書いていました。でも実は自分のため。・・眠っていたわけです。
「ありゃー、やってしまった」という感じでした。

癒しとか気づきというのは、誰かが誰かを癒すとか気づかせるというものではなくて対等に「光」を分かち合うものなのに、どちらかだけが教師の顔になって差別や優越感の中でコミュニケーションするとなると全く違ってしまいます。危ない方向にはまっていくでしょう。
自分のエネルギーが高くなっている(起きている)ときに行ったものは、後にも胸の辺りが「すーっ」とするのですが、(眠っていて)それに対するエネルギーの準備が出来ていなかったり、流れのタイミングに合っていない状態で行動したりするとエゴに侵食されたりします。

もう一つの信号は、エゴで動いたときには非常に疲れると言うことです。流れに逆らっていますので妙に気負って頑張っています。また欲望を満たしたとしても重くて嫌な感じがします。
反対に宇宙に素直に委ねている場合には、自然に流れているのであまり疲れないし、疲労があっても清々しい疲労感です。

精神世界の学びをすることは、常にエゴと紙一重のところに位置するとも言えます。エゴは無力化することは出来ても、人間である以上、種火までも消し去ることは出来ないので、油断すればいつでも火の勢いは復活します。
学びを進めていくに連れて、何冊の本を読んだとか、どんなセミナーに行ったとか、何年間続けているとか、これこれの技術に熟達したとか、エゴを満足させる煤がだんだんと溜ってきます。
早い話が「自分が偉くなったような錯覚」です。口ではどんな謙虚な言葉も言えますし、そういう態度や状況を頭だけで創作することは簡単なことです。エゴは「な、これだけ謙虚なんだから大丈夫だよ」と耳元で囁きます。
エゴと兵器は溜まってくるといつかは使いたくなります。自分があまり信じていないことは他人に説得したくなります。「世のため人のため地球環境のため」が、エゴの道具にすり変わることもあります。テロリストと呼ばれる人たちも、彼らにしてみれば自分たちのその行為は至極真面目に「世のため人のため」だったりします。

定期的な煤掃除は欠かせないと言えます。それなりの時間やお金などを投資して学んできたものを抱えたくなる気持ちも起こるかもしれませんが、時々それらを全部捨てて真っ白にならないと、学んだものを本当にドブに捨てることになりかねません。
知識を集めるために学んできたのではなく、それによって全体性(波動)を手に入れるために学んできたのですから、食べたものから栄養素を吸収したら、残りは排泄しないと便秘になっちゃいますね。

年末で、ちょうど大掃除の時期だし、これまで積み重ねてきたものをリセットして白紙に戻し、はじめの一歩から出直しましょうかと思っています。(^_^)

 

[12.23/荒野の誘惑]

精神世界の学びを続け気づきが深まってきますと、霊的アドバンテージ(本当は幻想ですが)のようなものが生まれます。視野が広くなることは視野が狭い人よりも有利です。
これははっきり書いてしまった方がいいと思うのですが、霊的アドバンテージにより、その気になれば自分の欲望を満たすために他人をコントロールすることも出来るようになります。相手のマージャン牌は透明になります。相手の置かれている状況や起こっていることを本人よりも理解できるので、そこに光を送ることも逆に弱みを握ることもできます。畏敬の念を選択するかエゴを選択するかです。

完全な統合をマスターするまでは、光が強くなればそれだけ影も濃くなりますから、相当のところまで進んでいる人でも、だからこそとも言えますが、あっさりと魔境に落ちていく可能性も秘めています。
エゴは非常に巧妙にそこに誘います。知らず知らずのうちに些細なところから転げ落ちていきますので、最初の危険信号を見落とさないようにしたいと思います。

自分の体の状態に注意して、もし変な感覚や部位が見つかったら、「なぜそうなったのか、内側は何を言いたいのか」を素直に認める勇気も必要になるでしょう。

誘惑と直面したときにどうするかが課題になります。
何も知らないただの暴れん坊のときはそれでよかったものでも、同じことを「わかっててやる確信犯」になりますと、返ってくる責任(カルマ)は重大なものになります。バイクで転ぶのは、自転車で転んでいたのと同じようなわけにはいきません。
自分の欲望のためにコントロールした「他人」というのは、結局は自分自身ですから、最終的に責任をとることは避けられません。逃げられるどこか、「一つの外側」は存在しませんから当然のことではあります。

これから、人によってはさまざまな能力にめざめる場合もあるかもしれませんが、その度に荒野の真ん中に立たされることになるでしょう。それをどう使うかが問われます。
エゴは自らを正当化するための理由をたっぷりと用意します。そこで宇宙(神我)の使途になるかエゴの使途になるかが試されます。

なんてエラソーに書いていますが、わたしもまだ起きたり眠ったりの繰り返しで、何度も転びそうになりながら、転びながら(^_^;)歩いています。これを始めてから、いろいろな方から教えられたり、危ないところを助けていただいたりしました。本当に感謝しています。(^_^)/

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