1997

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[4.05/悟り(1)・イメージ]

昨日森の中を散歩していたら、悟りについて宇宙から教えてもらいました。その内容は新鮮で、わたし自身「はっ」とするものがありました。

「悟りに対する唯一の障害は、自分が悟っていないという思い込みである」というラマナ・マハリシの言葉があります。また、新しく得られるものは、やがて失われるものであり、それは永遠のものではないので努力する価値はないとも言います。
悟りに対する固定したイメージが悟りを困難にしています。多分そこには頭で定義した「善」とか「愛」というイメージがつきまとっているでしょう。
「愛」に関しても、固定したイメージが、その定義から外れた(本当に)多くの愛を見失わせ、不自由なものにしています。

矛盾することにはなりますが、毒をもって毒を制するということで、あえて悟りのイメージを一つ書きますと、「悟った人」は、たとえば電車に乗って座っていて、目の前に体が不自由な人が現れたときに、その人に席を譲らない場合もあります。
それは彼が超能力で相手の全人格やカルマなどを透視して、「この人は頑固な性格で他人とは不親切であるという信念を持っているから、仮に譲ってもそれを受け入れないだろう。だから今はむしろ立たせて教訓を学ばせた方が彼のためになる」と判断してそうしている。・・・のでは全然なくて、席を譲るのが恥ずかしいから、譲って断られたらみっともないから、偽善者呼ばわりされるのがいやだからと他人の目を怖れてそうしたりします。

悟った人は常に「愛情」深いので、そういう場面に立ち会ったら必ず「善」なる行いをするだろうというのは違います。
また、「なんだそれじゃ悟っても、ちっとも人様の役に立たないじゃん!」と言うときには悟りは人様の役に立つはずだという固定観念があります。
同時に、「これが人様の役に立つことである」という固定観念もあります。もちろん人様の役に立つこともありますが、どのように役に立ったのかは、神のみぞ知るところであります。

悟った人が、他人の目を気にして行動できないと言うのは驚きですが、彼はただそれらをありのままに体験しています。彼は自分が何ものにもなれないことを承知しているので、そういう選択をしてしまうこともある自分を許します。
譲れないことを悲しく思いますし勇気を持って譲りたいとも思います。もちろんすっと席を譲れることもありますし、その時には喜びます。
しかし自分が「それ」でないことを知っていますから、罪悪感を持つことはありません。また自分が何も知らないことも知っていますので安易にそのドラマに価値判断を加えて、根拠のない苦悩を選択するようなこともしません。
彼は人間であることに抵抗しません。ですからエゴも欲望も「不埒な」想念も起こるときには起こりますが、それと戦うことも含めて翻弄されてしまうことはないのです。「わたし」としてそれを観察しています。
自分が「不完全で完全」であることを知ることによって初めて、他人の不完全に対する本当の思いやりや許しが生まれます。人間を知ることによって、人間を愛せます。

 

[4.05/悟り(2)・人間であること]

悟りに対して固定的なイメージを持ち、それに自分を当てはめようと努力してフリをし続けることは、やがて失敗します。
「善なことをするんだから結構じゃないか」というときの「善」とは、自分にとっての「善」に過ぎず、ただエゴを喜ばせ上等になったり進化したような気持ちにもなるだけのものです。そのために、「弱い他人」として裁く相手を必要とし利用しています。
本当に「善」を行うときには、少なくともその時にはそれをしていることに気づいていないでしょう。評価はどうでも良く、ただしたいがままにしています。ゆえに「善」という言葉は、その存在を必要としないとも言えます。

何かになろうとすることは、さらに分離感をひどくします。エゴの理想を基本とした人造人間キカイダーになるために、いつもキリキリとしているため、波動はとげとげしくなり自他ともに安らぎが訪れることはありません。
頑張っている間は理想を維持し続けることも出来ます。そしてその価値判断を元に「理想的ではない」他人を非難しますが、ちょっとでも気を抜いてしまうと、途端に元に戻ってしまうので今度は自分自身を非難します。常にどこかを非難していなければなりません。

人間としてのありのままを許容したとき、ネガティブと呼ばれるものを統合したとき、本当の調和が訪れるでしょう。
悟りとは人間を超越することかと思っていたら、それは全く逆でした。悟りとは何ものにもならないこと、人間であることです。

 

[4.14/何をしに来たか]

「わたしは地球に何をしに来たのだろう?」という問いの答えが、一つわかった気がします。わたしは人間をやりに来たのでした。

なんという当たり前の答え!しかしこれまでそれに気づいていなかったと言えます。逃げること、ごまかすこと、目をつぶること、なるべく考えないようにすることに夢中だったのです。そのためには、あらゆる手段と言い訳を使ってきました。
たぶんそのうち、・・最悪に遅れても老衰では死ぬことがあるだろうから、お時間までは、あれが上だ下だ良いだ悪いだのとドンチャン騒ぎでお茶を濁しながら、夢うつつのままに過ごしちゃおうと目論んでいたのです。「輪廻転生」を言うならば、それはさんざん繰り返してきたことでした。
ラーメン屋にやってきて、スパゲッティーを注文したり、ラーメンにソースやタバスコをかけたり、麺は食べるがスープは飲まなかったりと、まあそれこそ必死にジタバタしては、まともにラーメンを食べようとはしなかったのです。
またはジェットコースターに自ら乗り込んでおいて、乗ったら乗った出一刻も早く降りることばかりを考えていたとも言えますね。う〜ん、「だったら最初から乗るなー」と突っ込んでおきましょう。

「あの世」と「この世」という二つの世界が説明されることがありますが、実際には「あの世」も「この世」も存在しません。ついでにいうと、「どこか」も存在しません。それらは頭が創り出した幻想であります。天国や地獄が存在するのなら、その場所は「今ここ」。そこ以外にはありません。

ですから、「この世」に絶望して、「あの世」に行ったら(行けませんが)ラッキーになるという事はないわけです。ここに天国が見つからなくて、「どこか」に天国はありません。ここが地獄なら、どこに行っても地獄です。冷たいようですが、それに開き直ることから第一歩を踏み出さないと、永遠に天国は見つからないのでしょう。
逃げる場所はどこにもないです。逃げる場所があるという嘘が、地獄と混乱を温存してきました。宇宙の果てまで行こうと、たどり着いたら?そこは「今ここ」です。

人間をやりに来たというのは、人間であることを愛しに来たと置き換えられます。人間の全てを、人間のありのままを愛しに来ました。
エゴが言うような「立派なこと」をしにきたのではないのですね。
人間のこの肉体と、それに伴う自然の行為の中に不純な部分は一つもありません。あらゆるものを最小単位までに分割(できませんが)したときに、そこには空があり愛があるだけです。0×0=0であり、0とは神であります。
「不純」を見つけられるのは頭が固定観念の催眠術にかかっているからです。ニューエイジ的な表現も加えると、その機能不全を治すためにやってきたとも言えます。

人間であることのありのままに愛を見つけること。
エゴの音頭に踊らされた取捨選択のゲームはもうたくさんなので、今度?は逃げずに、ちゃんと人間をやりたいと思います。

 

 

[507/なんかイイ感じ]

最近はお茶会(※Star peopeで行っていた掲示板)とかの書き込みに夢中で、すっかり更新が遅れちゃってま〜す。(^_^)

これを初めてから一年が経過しました。この間はアッと言う間のような、遙か遠い昔のような不思議な感覚です。とにかくメチャメチャ凝縮し、加速してました。
ここはやりたい半分やりたくない半分で始めたHPでした。誰かと情報を交換したいという思いと、神だの愛だのという日記を見られるのが非常に恥ずかしくて、なるべく人に知られないうちにダーっと書き倒して、「ほなさいならー」と逃げてしまおうという思いとが交錯していました。
今ではもう開き直ってるけどね〜。\(^_^)/

この一年でのわたし自身の変化を振り返ってみると、やはり得たものは大きかったです。他人と交流することから、自分一人だけの探求では得られないものをたくさん得られました。「分かち合い」というのも何となくわかってきた感じです。
やりたくないことや怖れに直面できたことが、大きな成長につながったのだと思います。エゴは新しいことが嫌いで、既知・安定・停滞を望むのに対して、魂は常に変化・拡大を望みます。
ずいぶん動揺したりもしましたが、その度にどれだけ多くの人に励まされてたかを思うと、感謝感謝感謝です。

「本質(わたし)」の部分というのは全く変化してないし、することはないのですが、人間としての一番大きな変化は、人間が好きになったことでしょうか。
わたしは元々人間嫌いな性格を持っていました。輪にはいるのが苦手で孤高を気取っている方を好むタイプですね。
精神世界に関わるようになってからも、愛というお題目を念仏のように唱えていたにしては、実際には人が好きでなかったような気がします。愛の使い方にしても「どうしてみんなは愛がわからないのだ!」という、自分で勝手に定義した愛を基準に人を非難するような感じだったようです。もちろん自分もわかってなかったわけです。

人間が好きな感覚っていうのは不思議です。花を見ているときの嬉しさに近いのかな。たとえば街の中を歩いている人を見たときに、微笑んでいる人はもちろん、怒鳴っている人を見ても、「なんだかいいわあ〜」という感じになります。いつの間にかニヤけている自分に気がつきます。
苦しい学びを選択している人を見ても、最初は悲しくなったりするのですが、次第に彼の勇気に対する尊敬に変わり、最後には感動して「人間だ!いいわあ〜」になります。
だから人と会ったりしてても、無性にワクワクしたりします。わたしは相変わらず動揺したり、何度も失敗して落ち込んだりもするのだけど、それらを含めて楽しい。そういう経験から学べる人間であることが嬉しいです。
「愛」とか「許し」とか「神のなんとか」って気張っていたうちは、それは得られませんでしたが、そういう過程も必要だったのでしょう。
今は愛なのか神なのかもよくわからなくて、気合いもスローガンも外れてしまって、もう言葉は見つからないけど、・・・静かで自然で嬉しくて、なんかイイ感じになっています。

わたしは結局何もわからなくなりました。何もわからなくなることによって、やっとトンネルを抜け出せた感じです。だから言葉という道具を使って書いていくのは難しくなっているのだけど、それでもここは楽しみながら、もう少し続けましょうと思っています。
「なんかイイ感じ」っていうのが、どういう状態なのか、究極なのかまだ先があるのか、そんな事もどうでもよくなっているようです。向かう場所も目的地もなくて、やっと「今」に戻って来つつあるのかな。

 

[5.31/さてさて]

う〜ん、マジで更新していない今日この頃だす。お茶会とかにエネルギーを使ってしまうと、ここに書く力が残ってないのだー。と言い訳しつつも、6月からはまた心機一転で始めましょうと思っています。書くことはまだいくらでもあるしね。
書いても書いても届かないことはわかっているけど、でもやっぱり書きたいのです、なぜか。
これからのテーマは、いかにわかりやすく書けるかかな。
小学生でもわかるものでありたいし、それが本当だと思う。そうでなければ何かが違うのです。難解なものは、宇宙に近づくようで実は遠ざかっているし、自分でもよくわかってなかったりもします。

また最初の一歩からです。同時に最初の一歩が全てでもあります。
ここには普通のことを書いていきましょうと思っています。それではよろしくお願いいたしまーす。(^_^)/

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