1996

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[1:Title/光と影]

たとえば人が仏教の戒めに全て反して生きている様に、何を見るだろう。汚らわしさだろうか、怒りや憎しみだろうか。諦めや悲しみだろうか。
そこに光が見えないだろうか。強欲に生きている人、自分のことしか考えない人、平気で人を傷つける人、妬み嫉みなどのマイナスの想念の固まりで生きている人、お金にしか価値が見いだせない人、神も仏も信じない人。
それらの中に光が見えないだろうか。
光は草花が咲き誇る大自然の中にしか存在しないだろうか。合成化学調味料で塗り固められた食べ物も、無味乾燥なコンクリートジャングルも、黒い排気ガスも、環境破壊をもたらす公害も、やはり神である。ならばそこに光がある。

光と影の戦いで、もし光が勝ったとしても、それは宇宙的な規模の調和の目的からすると、妥協した結果になるだろう。何のための地球の歴史か。ただ光が勝つだけなら、宇宙の実験場としての地球の意義は半減する。
光と影の融合が、本当の調和の道である。

光をただ光と決めつけ、影をただ影と決めつけるだけの分離意識では問題は解決しない。
光の中に影を見る。影の中に光を見る。光も影もお互いを必要としている。ならば光も影もなくなった状態が究極の調和である。
光と影が融合し、お互いの存在がなくなったとき、本来の神の元に帰ることが出来る。 どちらかが残る戦いの方向には帰り道はない。
究極の調和とは、「あるもの」が全く無くなった状態である。たとえ光でさえも無くなった状態である。
『何も無くなった状態が、たった一つ「ある」』という状態が、神である。

 

[2:Title/神と人間]

神と人間の関係について、一つのイメージです。
神という全く「一」なるものがあります。一つの大きな球を思い描いていただいてもよろしいかと思います。それが無数に勃起します。たとえば地球上においては60億本勃起します。そしてそれにコンドームを被せたのが人間です。人間はなんと「そのコンドームが自分自身である」と思っているわけです。

 

[3:Title/映画館]

今地球で起こっていることには、さまざまな見方が出来ます。
神というのは「一つ」のものと言えますが、人間に多くの個性があるように、手に親指や人差し指があるように、一つの神にもいろいろな側面があります。側面を個性と置き換えることもできます。それを天使や宗教上の神として偶像化することもできます。

実際現在の地球には数多くの神の側面が存在します。それぞれがそれぞれの意図を持っています。もちろん善悪上下はありません。
地球は映画館が集まっているビルに例えられます。同時にいくつかの映画が上映されています。それぞれの映画の監督を神々が行っています。そして人間は自由に何を見るかを選択するわけです。
地球破滅やハルマゲドンの映画を選択する人もいるでしょうし、平和な地球になるストーリーの映画を選択する人もいます。観客の波動・想念が映画のチケットになります。そしてこれは同時に平行多次元で行われています。
どの選択が正しいとか増しだということはありません。ハルマゲドンは何度も見て見飽きたので、今回は平和の地球を選択するというパターンもあるわけです。
神々という言い方は、どうしても分離したイメージになるのですが、神々とはつまりわたし(たち)自身であるわけです。観客と監督を同時にやっているとも言えます。わたし(たち)は「今回は」どんな映画がみたいでしょうか。

 

[4:Title/知識]

本屋に行くと、精神世界の本がたくさん並べられています。ここにもそれらのリストがあります(※以前のサイトには本の紹介コーナーがありました)。そこには膨大な量の真理知識が書かれています。
しかし本来、真理と知識とは直接関係はないものです。現在日本にある仏教は、非常に哲学的専門的になっていますが、釈迦は特別に学問を修得したわけではない普通の人々に普通の言葉で語りかけました。イエスも普通の言葉で普通の人に語りかけました。

真理は誰に対しても解放されているものです。たとえ目や耳が不自由でもです。むしろその方がより解放されているかもしれません。
ヘレンケラーに真理が悟れるなら、膨大な書物とその知識は何の意味があるでしょう。宇宙の法則や天使の名前や神々の争いや次元転換のことやアトランティスの滅亡や個々の水晶の効能や何とかパワーにいたるまで、知識の世界にはきりがありません。確かにそれらは真実かもしれませんが、必ずしも真理の必要条件ではないのです。
目の前で小さな子どもが転んだのを目撃したときに、その子どもを助け起こすのに何が必要でしょうか。宇宙の法則を学び、水晶を握り、マントラを唱えながら助け起こすでしょうか。

真理は本当にシンプルです。難しくするのはエゴによるものです。知識を得ることもそれはそれで大切なことですが、本質から離れないようにしたいものです。わたし自身の自戒を込めて書きました。

 

[5:Title/エゴと悟り]

エゴは「悟りのため」ならどんな協力も惜しみません。「悟らないため」ならではありません。
エゴは悟りに必要なものを次々と提示してくれます。そしていつも応援してくれます。「もうすぐ悟れる、あそこに悟りがある、これをすれば悟れる」等々です。そして際限のない儀式を要求します。釈迦は一日に米粒一つを食するまでに減らされたといいます。エゴは蜃気楼を指さし、「あそこが目的地である」といいます。

エゴの言うことを聞けば、「よい人」や「立派な人」や「高徳の人」にもなれます。世間もそう評価してくれる一生を送れるでしょう。時には超能力や不思議な力を与えてもくれます。そして本人は「常に」「もうすぐ」悟れるという確信を深めていきます。しかしそこまでです。もうすぐのままその一生は終わります。エゴはまんまと目的を達成します。

「悟り」という言葉は、それそのものがすでにトリックの中にあります。言葉にした途端に、探す対象になってしまいます。三次元世界の仕様上、仕方なく言葉というものを使いますが、言葉にとらわれるとここでのゲームはなかなか終わらないでしょう。
エゴによって「高徳な人」になったならば、それ以前の自分は高徳な人ではなかったということになります。そして周りを見回して高徳ではない人を発見し比較します。そういう価値判断や差別の中にありながら、自己満足だけが増大します。

世間には肩書きというものが多数存在します。会社の役職であったり学歴であったり、いろいろありますが、「神の使徒」という肩書きほどエゴを満足させる肩書きはありません。本人はそれ以上に最高のものはないと納得します。「神」という言葉は、ある意味ではエゴの切り札でもあります。これがなければ地球上はとっくに釈迦とイエスだらけになっていたことでしょう。

エゴは「神」という言葉をもてあそんで出来る限りの工夫をします。「人は神である」という言葉は、実はエゴの常套句でもあります。確かにその通りではありますが、それを頭で何度唱えてみたところで、「なるほどわかった、わかった」というだけで、その先には進みません。
実際のところ、悟りのために「やるべきこと」も「してはならないこと」も何も存在しません。ただ自分をありのままを認め、愛することです。それだけです。
どこかに行こうとすればするほど遠ざかります。

正確ではありませんが、こういう昔の説話を聞いたことがあります。10人の人間が川を渡り、川の向こう岸に着いた後にその中の一人の愚者が全員の人数を数えると、9人しか数えられず、一人が溺れて死んでしまったと泣くという話です。自分以外の数をいくら数えてもその方向では永遠に答えは得られないでしょう。
エゴとは勝負しないことです。泣いている赤ん坊とは勝負しないことです。それをありのままに認め、鵜飼いの鵜のように自分の管理下に置けばよいのです。見て見ぬフリをしたり、戦ったり、嫌ったり恐れたりすれば、エゴは暴走します。「赤ん坊は泣くものである」とそれをあるがままに認めてしまえば、こっちのものです。あなたは釈迦になり、エゴは手の中の孫悟空になります。

わたし個人の話もいたします。わたしにもエゴがたくさんあります。ここにこう書きながらエゴがいろいろ囁いているのを知っています。「うまいことを書けば誰かに尊敬されるぞ」と言っているのも聞こえます。しかしわたしはそれを構わないと思っています。エゴを取り除こうとかそれと戦おうとは思いません。これは全くわたしの一部分であり、わたしです。しかしわたしはそれだけではありません。わたしはあらゆる部分を持っているありのままの存在です。そして全ての人と同じように神であります。

 

[6:Title/役割]

今この時代に地球にいらっしゃる方は、みな理由があっていらっしゃるわけです。この(ドラマチックな転換の)時代だけに特別参加している存在もありますが、ほとんどの方は、直線的時間の観念でいうところの輪廻転生を繰り返して今の時代にたどり着いています。
その輪廻転生の間に数え切れないほどの体験を積んでいます。あるときは聖者であったり、あるときは大泥棒であったり、あるときは大富豪であったり、あるときは貧乏のどん底の中で飢え死にしたり、また人を救ったり殺したりもあったでしょう。全ての両極を体験しています。あらゆる感情あらゆる学びを体験しています。その上での今日があるわけです。

それだけの集大成である「今の"わたし"」という存在が、小手先だけで「善く」なったり「悪く」なったりする事はありません。全ての人がそうです。
ですから誰かに何かを強制したり、こうあるべきであるというような裁きは全く無意味です。海の水に砂糖を入れて甘くすることは出来ません。
三次元世界で物理的に見えるものを表面的に価値判断すると、善いものや悪いものが見えます。そしてそのどちらかに荷担している人が見えます。
今現在「善人」をやっている人は、輪廻転生の成功者でしょうか。逆に「悪人」をやっている人は落伍者でしょうか。
実際には善人も悪人も存在しません。しかし「善役」と「悪役」は存在します。悪代官の存在しない水戸黄門はドラマにならないからです。
しかしそのドラマももうすぐ最終回を迎えます。地球という映画館での、善悪をテーマにした映画のロングランはフィナーレを迎えます。他の映画に切り替わります。もしまだそういう映画を見たい人は他の映画館に行くことになります。

地球における輪廻転生のスタートラインは全員一緒ではありません。最初から参加の人も、また途中で(他のドラマが楽しそうなので)離脱する人も、好きな時代にのみ何度かくる人もいます。
今「善役」をやっている人は、必ずしもではないのですが、地球での転生経験が長い人が多いでしょう。「悪役」をやっている人は、経験の短い人や、あえてその役割を選択して下さっている人になります。
長い人(善役)は先輩という形になりますが、それは地球においてはということです。宇宙には無数の惑星があり、それぞれにはあらゆる学びがあります。善や悪という二極の価値観だけではありません。

わたしたちは、たまたま地球に先に来ているに過ぎません。過去において、ある時点のある惑星では先輩後輩が逆転していたり、これから先にそうなることもあります。
「悪役」と簡単に言っても、彼らが苦しんでいる姿は見るに耐えない場合もあるでしょう。何とか出来ないだろうかと思うこともあります。こうすればいいのに何でわからないのだと苛立つ時もあります。
しかし、わたしたちが出来る彼らに対する最大の奉仕は、彼らのありのままを愛し尊敬することです。彼らは「過去」に、どこかの惑星で、今とは逆の対場からわたしたちのありのままを愛し尊敬し、自由を与えて下さいました。そしてわたしたちは学ぶことが出来たわけです。
今回はわたしたちがお返しする番です。彼らの強さと偉大さに焦点を当て、彼らの学びを温かく見守ることです。地球のこの時代に「悪役」をやると言うことは、本当に勇気のいることです。
実際にはどちらが先輩後輩であるかを判断することは出来ません。どちらも教師でありどちらも生徒であるとも言えます。
全ての人はありのままの存在です。調和への道はありのままを愛することです。トリックである論理的思考を使うのをやめれば、彼らはわたしたちであり、わたしたちは彼らであるわけです。

 

[7:Title/現実を創る]

今さっき人から聞いた話を書きます。あるタクシーの運転手さんの話です。
その方は東京でも1、2を争う売り上げを誇る人だそうです。その方を指名する固定客は何十人もいます。元は中小企業の会社の社長さんでしたが、その会社は軌道に乗ったので後身に譲り、今は望んでタクシーの運転手をしています。過去に車に乗っていて湖に落ちそうになったところをタクシーの運転手さんに助けられたことがきっかけで、自分も運転手をやろうと決めたということです。

抜群の売り上げの秘訣は何かと聞いたところ、「感謝の心」だと教えてくれたそうです。何事にも「ありがたい」という態度で接していると、心に余裕が生まれます。たとえ1メーターのお客さんでも、心から「乗って下さってありがとうございます」という気持ちを持ちます。
その方は無理な運転や勤務はしません。それどころか、毎日夕方にはサウナや銭湯に行きます。しかしそれは自分のためと言うよりも、途中で一度体を清めてから次のお客さんと接したいという気持ちからだそうです。

「ありがたい」という気持ちは波動になり、理屈や空間を越えて人に伝わります。実際には手を挙げて下さるお客さんは長距離客でしかも良い人ばかりだということです。ですから無理をしなくても売り上げは伸びる一方になります。そういう現実を自分で創り出しています。

言葉はいくらでも偽ることは出来ますが、思いは偽ることは出来ません。そして現実は思いと連動します。言い訳は効きません。

精神世界は、つい理屈が先走ってしまう傾向があります。運転手さんが、どういう学びをしてらっしゃる方かは存じませんが、少なくとも実践において一つの証を創造していることは事実です。神よ神よと言わなくても、神の証は立てられます。その方に尊敬の念を持つとともに、わたし自身のあり方を反省させられました。

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