1996

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[1:Title/意識と波動]

 

人間の意識の中には、「天国(キリスト)意識」と呼ばれる神我の極と、「地獄意識」と呼ばれる自我(エゴ)の極とが存在しています。
これは誰もが共通していることです。たとえイエスや釈迦であっても地獄意識の部分は存在していましたし、またいわゆる世間で極悪人とされる人にも天国意識の部分が存在しています。

どちらかしか無かったり、どちらかに偏っていたりということはありません。仕様は同一です。違いは自分の波動(チャンネル)をどこにフォーカスするかということです。それは個々の選択になります。

左の図では便宜的に数字を振ってありますが、イエスや釈迦のようなマスターと呼ばれる人たちは、自分の波動を完全に10の位置にフォーカスし、微動だにしない状態を保ちます。逆に、ネガティブな存在と呼ばれる人たちは、1や2の低いところに波動をフォーカスします。全ての人が自分の波動をどこにフォーカスするかの選択権を持っています。

波動には一つの法則があります。それは、常に近い波動同士が引き合うというものです。図に7の波動を持っている人が描かれていますが、彼は同じ7の波動を持った人とともに、Aという世界を共有します。また、3の波動の場合は、同じ3同士でBの世界になります。

もう少し具体的に言いますと、地球上にはあらゆる波動を持った人が存在していますが、たとえば7の波動を持った人は、同じ7を持った人としか出会うことは出来ません。町の中を歩いていて他の波動を持った人とすれ違うかもしれませんが、それだけです。まるで映画の画面に映っている人のように、見ることは出来ても直接関わり合うことは起こりません。

よく「何でわたしはこうも(否定的な何か)な奴にばかりに出会うのだろう。自分はこんなに(肯定的な何か)な人なのに」という人がいますが、そういうことはありえません。出会う人は全て自分自身の(波動の)鏡です。
たとえば「世の中にはロクな男がいないわねえ」とか「みんなバカばっかりだ」とか「いつも自分を不幸にする人にばかり取り囲まれている」という思いと現実の中にある場合には、その鏡が映し出しているものは何でしょうか。

ときには波動7の人が波動3の人と出会うことがあるように見えることがありますが、これを一つの物語にするとこういう感じです。
回りの人から「あいつは嫌みな奴だ。性格がねじ曲がっている」と言われている、波動が3のCさんという人がいます。Cさんも彼らに対して、「お前らこそ嫌みで、いやな野郎だ」と突っかかって、いつも喧嘩しています。お互いに相手が悪いと言い争っています。彼は普段そういう世界の中にいます。
ある時、波動が7のDさんが、Cさんと出会うことになりました。DさんはCさんの評判を耳にしていましたが、実際に会って見るとその印象は、「いい人じゃないか」というものでした。これは単なるDさんの人のよい思いこみではなく、実際にCさんはDさんに対して、否定的な行動は何も起こしませんでした。それどころか親切でにこやかだったのです。

それはCさんはDさんに対して、嫌みな態度をとる『必要がなかった』からです。必要がないことは誰もしません。もしくはそのレベルで波動を合わせることが出来なかった、この相手とは“3”の曲でダンスを踊ることが出来なかったとも言い換えられます。Cさんは自然と自分の中の7の部分でDさんと接しているわけです。
彼は、もしまた同じ波動3の人と出会えば、すぐさま嫌みをまき散らしたりするでしょう。もちろんDさんの中に同じ3の部分が見つかれば、すぐにでもかみつきます。しかし、Dさんに対してはその必要がないことが無意識の中で「わかる」のです。
ですからここでも波動の法則は生きていることになります。

実際には、波動はさまざまな要素によって成り立っています。単純に7だ3だとは割り切れません。一人の人間が、ある部分は8の要素を持っていたり、ある部分では2の要素を持っていたりします。また、マスターレベル以外の場合には、その時々で波動の位置は揺れ動きます。そして自分の持っている波動の要素と同じ部分を持っている、(外部のように見える)他人を引きつけます。そしてお互いを鏡として学び、波動の分かち合いをするのです。

低い波動の一般的な特徴としては、常に「自分以外の誰が悪いか」ということが話題の中心になります。地獄意識の中で(外部に)敵を見つけます。
反対に、高い波動の場合には「自分も他人も誰も悪くはない」という思考になります。そしてそれ(天国)が「現実」になります。

イエスや釈迦のようなマスターは、ほぼオール10ですので、基本的には同じ10の人としか出会うことはありません。常に天国です。そうなるともはや地球に存在する必要は無いとも言えます。しかし彼らの「レベル」になりますと、自分で自由自在に波動を調整したり切り替えたりすることが出来るようになります。
つまりあえて意図的に自らの波動を変え、自分よりも波動の低い者たちと出会うことを選択できるのです。

波動の低い者は、その根底に無力感や自己憐憫、罪悪感、被害者意識、自虐思考などの否定的な要素を抱えています。「どうせ俺なんか」とか「わたしなんてこの程度がお似合いだわ」とか「回りが自分を不幸にする」という思いです。そしてそういう低い波動のレベル範囲が、自分のトータルであると信じています。さらにそれを証明するかのような現実と環境を自分に引き寄せ、袋小路の中で苦しみます。

そこにマスターは現れます。ありのままの自分を愛し、愛の流れになって存在します。言葉はおまけでした。それよりも自分自身の本質において、ただあります。するとそれを見た者は、彼ら自身の中に(すでにあった)「10」の要素を見いだします。こんな部分があるわけがないと信じていたものを自らの中に発見し、驚愕します。自分の本質に「気づく」わけです。マスターは自らの波動を分かち合って、彼らが「気づくきっかけ」を提供したのです。
マスターたちがしてきたことはそういうことでした。特にテクニックはなく、自らの波動とともに「ただあった」だけです。

 

[2:Title/風邪]

昨日から少し風邪を引いてしまいました。喉の痛みと微熱と軽い寒気程度ですが。そこで体験していることを書きます。
わたしが風邪を引いて最初に考えたことは、「やだな」です。当たり前ですか…?
そして「ああ、面倒くさいことになった。さっさと治したい。風邪を引くような心当たりはないのに何でなったんだろう、まったく・・」と考えます。さらには例の古いパターンの論理的思考の価値判断が始まります。「これは、わたしが何か間違ったことをしているので神が警告として与えているのではないだろうか」とか「何らかの罰が与えられたのではないだろうか」という類です。
しかし神は罰を与えるということはしません。「ばち」という概念は、人間が持つ非常に大きな誤解の一つです。

もちろん風邪を引いたのには、何らかの理由あるいは導きがあるでしょう。引いたのが一昨日ではなくて明後日ではなくて昨日であるということも偶然ではないことです。偶然と言うものは存在しないからです。宇宙は無駄なタイミングというものを与えることはしません。全てが完璧なタイミングです。しかし、その理由を頭で理解しようとする必要はないことです。ことさら否定的に解釈するのはさらに意味がないことです。わかることはわかるときにはわかるでしょうから。

わたしはこれまでは風邪を引くと、とにかく何とか風邪という現実から逃げることを考えていましたが、今回は新しいパターンを思いつきました。「せっかく風邪を引いたのだから、風邪を楽しもう」というものです。風邪を楽しむと言っても、治さないわけではありません。風邪の症状と、それが治る過程を楽しむということです。確かに風邪は不快です。喉の痛みや寒気は不快な感覚を伴います。しかし、「不快」イコール「悪いこと」と決めて掛かる必要もないことです。風邪のウイルスも神であることには変わりありません。

神が与えるものは「体験」です。わたしは、神が与える体験の本質は無色透明中立であると思っています。それを人間がどう色づけするかです。
神の「レベル」での理由なり意図なりがあるのかもしれませんが、それを「人間をやっているとき」に、必死に「人間の頭」で推し量ろうとするよりも、素直に体験した方が良いのではないかと思います。「空のささやき」の中にも書いてありますが、赤ん坊としましては「乳母車の行き先を心配するよりも、母の差し出した目の前にあるミルクを飲もう」ということです。

わたしは今、風邪を楽しんでいます。だからといって不快な症状が不快なことには変わりはありません。しかし、言葉で説明するのは難しいのですが、ちょっと「楽しく」なりました。

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