1996

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[5:Title/怖れ(3)]

言葉を使うときに、思いが裏腹であったり違う意図があっても気軽に「まあいいや」と発してしまうときがあります。エゴは「どうせ相手にわかりゃしないんだから、言っちゃえよ」と囁きます。
その誘いに乗ってたとえば、「素晴らしい!(本当はそれ程とも思ってないけどね)」とか「あなたを許します(その代わりわたしを尊敬してね)」などをしてしまうと、本人は平気なつもりでいながら、実はその裏側で怖れが確実に一つずつストックされていきます。

ここでもそれをやれば(すでに何度かやりましたが・・)、読んでいる人はごまかすことは出来るかもしれませんが、わたしには確実に「油断するな、構えろ、操作しろ、誰も信用出来ない、頑張ってうまくやらなければ悲惨になる」等の怖れがわたしにプレゼントされます。自分だけはごまかせません。
そしていつかは「思いの現実化」を含めて、そのツケを支払わされることになるでしょう。自爆です。

自分の言葉の中に、ちょっとしたものであっても、二重構造の思いや嘘が存在していないかをチェックすることは大変なことではありますが、やらなければどんどん怖れが増えてもっと厳しい状態になるだろうことは明らかです。

問題解決は、後になればなるほど厳しくなります。怖れが溜まりきって、柳の木が大魔王になってしまった状態では、もう簡単には戻れなくなってしまうかもしれません。
その時にはもはや怖れを擁護する立場に回っての人生を費やすことになるでしょう。怖れを擁護出来なければ、自分に対する言い訳を維持できなくなり、もっと怖れることになるからです。
「怖れ大魔王」の手下として、エゴの小さな視野を守るため、いつでも不快な思いを背負いビクビクしながら、「外側」への攻撃の手を止めるわけには行かなくなります。またそうなると、脅迫でも何をしてでも同じ仲間(あるいは手下、強引に同意させる相手)が欲しくなるのは歴史を見る通りです。怖れが怖れを呼び、狂気が起こります。

わたしは今もツケを支払っていますが、これ以上借金をするのは止めにしたいと思っています。怖れから逃げ出すためにもっと怖れの借金するという、麻薬のようなパターンは終わりです。単に損得で考えても、得をしたいからそうします。

怖れがもたらすものの一つに猜疑心があります。自分が「ありがとう!(それほどでもないけど)」をやっていれば、他人の「ありがとう」も当然文字通り受け取ることが出来なくなります。これでは調和も喜びも生まれませんし、今後それが生まれる可能性も見えません。

また怖れは罪悪感をもたらします。難行苦行というのは、自己処罰にもなります。苦しみを免罪符にしたいわけです。もしくは偶像や特別な何かにすがってしまうとか、難解な理屈や概念を構築したり、教典を必死で丸暗記したり、「誰か」に全責任を転化して裁いてみたり(これが一番簡単です)と、とにかく根本である怖れの問題を後回しにしたいわけです。

怖れの「外側」への責任転化は、どこまででも大きくなるように思われますが、実はゴールがあります。怖れは野放しにしていると、「わたしが不幸なのは今日の天気がいいからだ。今日雨が降っているからだ。太陽が東から昇るからだ・・」まで行きます。
しかしさすがのエゴも、それはちょっと強引かなと思います。では最後の責任転化はどこに行くかというと、自分の肉体に対してです。「わかった、この肉体があることが問題なのだ…」。これが一番大きなツケの支払いでしょうか。

決断することが求められます。怖れが猛反対する最初の一歩が一番きついかもしれませんが、後になればなるほどもっときつくなることは明白です。未処理のまま、この道を先には進めないことも明白です。時効や踏み倒しは期待できません。決断は「そのうち」よりも「今」が最善の策で楽です。

怖れと言えば「不快」、ゆえに反射的に「逃げたい」となります。しかし逃げたらアウト。不快と言っても、死ぬほどではなく、ちょっと気合いを入れれば何とかなるレベルです。理性が大袈裟に誇張宣伝するほどのものではありません。
怖れと直面するのは、鳩尾がムカムカしたり落ち込んでいる、その時が合図です。通常ならば「こうなったのは誰のせいだ!」と行きたいところですが・・、ぐっと我慢して、勇気を出し正直に、それをはっきり口に出すか書いてしまうのが効果的なようです。 「こういう理由でこの怖れがある」。

さらにそのドラマの大きな構図を見つけたいと思います。無意味にやってくるものは無いからです。神のいじめで怖れと格闘させられているわけではないはず。何が意図されてこうなっているのかです。

光の中にさらけ出すと、怖れは蜃気楼のように消えていきます。そもそもが幻想だからです。怖れとは「わたし」ではありません。

 

 

[6:Title/<お茶の時間>]

これを始めてから5ヶ月ほど経ちました。ちょっと一息。

ここは、気づいたことを気づいたときに書きながら、在る意味、自分を飛び込み台の最先端まで追い詰めるためにやってきました。頭や言葉で出来ることは、そのうちに出尽くすはずです。永遠には書き続けられない。論理的なネタは尽きるはず。それが明日になるかいつになるのかはわかりません。・・たぶん「今」でしょう。

わたしは、飛び込み台の板の上で「台から水面までの距離は2m、水に入ったら冷たいだろう。心臓麻痺起こしたらどうしよう、いやむしろ気持ちいいかもしれない。なるべく鋭角に飛び込もう。まてよプールの深さは充分だろうか。ところでこの板のしなり具合はどうだろう。救助員はどこにいる。水着のひもは緩んでないだろうか。耳に唾液を入れてと。そうだもっと準備体操をしよう。うーん、さっき食べたカキ氷のせいでお腹の具合が・・」という自己探求ライブ?をしています。

その様子を「世界」と分かち合いながら、さらに「他」の方のアイデアや御意見も参考にして、「あとは飛び込むしかない!」と開き直るところまでを、これの役割の一つに考えています。そこから先は理屈ではなく、体験の領域です。

インターネットは、誰もがまったくの自由意志で読むことが出来るわけです。どこにも強制はなく、大企業も宗教団体も個人のページも対等です。みんなが自由に思っていることを書くことは素晴らしいことです。いろいろな「見方」が生まれるでしょう。そして「自分だけの真実」が生まれます。それが究極の真実だと思います。

前にも書きましたが、どなたかにとって、ここがそのための踏み台の一つになれば幸いです。使える部分があれば使うとか、アレンジするとか、あるいは内容の全否定を通して何かを見つけるという方法もあります。要は自らの考えをまとめ、自立の足しになればありがたいところです。
1から10まで「そうそう」というのよりも、「なんだこりゃ?」という方が有意義な使い道があるかもしれません。

反省と言えば、最初に緊張して始めてしまったために文章が固くなり、いまさら「だよねー」調には書けなくなったことでしょうか。いやはや。ホントは書きたかったりします。キャラ的にもそっちですし。
でも、いちいち語尾に「・・だと思ったりしちゃったりなんかして」と書いてもきりがないし、読む方も書く方も疲れてしまいます。まあ、ときには断定調もご愛敬ということで軽く読み流して下さればありがたいです。

正直なところ、こういうジャンルですから、内面的なこととか、説教臭いような(わたしに対する説教なのですが)ことを書くのは、わたしも一応いわゆる「常識」があったりするので非常に照れ臭いし、エゴの「何様のつもりだ」の声に圧倒されてノックダウンしそうになるときも少なからずありますけれど、無価値感とか怖れとか、逆に欲望の部分とか、そういう経験も含めて勉強になるので、続けてきてよかったというところです。要は楽しいからやっております。

学びというのは、知識などを得るのが一つの段階、それからそれを体験するのが次の段階、しかしこれだけでは終わりではなくて、それを「世界」と分かち合うことをして一つの学びが完了(マスター)するようです。

自分の中だけにため込んだ状態では、やがてそれは風船のようにしぼんで行きます。車にガソリンを入れたら、エンジンをかけて「世界」をドライブしないとガソリンは腐ってしまうのです。

「宇宙の法則」という本にありましたが、たとえば宇宙や本や誰かから知識をもらった場合は、エネルギーが流れてきた状態なので、それを自分のところでせき止めてしまわずに次に流す必要があるのです。エネルギーを循環させます。
もらいっぱなしでは新しいものを入れるスペースが無くなり、進化が止まって、同じところをぐるぐる回り始めるでしょう。そしてしばらくすると退化が始まります。
わたしにとってここはそんな「打算」的な側面があるとも言えます。実際一人だけでやっていた時には、「詰め込んでも入らない、最初に入れたはずのものが消えてゆく」という頭打ちの状態になりました。

これまで「星の流れ」や「MAYA」(※「Inori」では二つを統合しました)を通して、ある程度書くことを書いたおかげで、便秘もすっきりして食欲もわいてきました。これからはもっと肩の力を抜いて書いて行きたいと考えています。

それでは、今後ともよろしくお願いいたします。

 

[7:Title/神の子]

宇宙の法則も真理知識も知らない

カルマも輪廻転生も知らない

イエスも釈迦も天使の名前も知らない

ニューエイジも精神世界も

神さえも知らない

 

奉仕という言葉も感覚もなく

ただ内側から湧き上がって来る

「やりたい」という思いから

止むに止まれぬ思いから

神として行動している人がいる

 

そこには義務感も使命感もなく

救ってあげるとか社会を変革するとか

気負いも押しつけも全くなくて

「他人の喜ぶ顔が嬉しいだけ」

だから行動している

 

神を知らなくても本当の神の子

素晴らしい

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