1996

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[1:Title/良心]

「わたしは無宗教ですが、神を信仰しています」と誰かに言いますと、人からキョトンとされる場合もあります。わたしの方も「どうして?」と思います。
神を信仰するのに、宗教だけではなくて、他のいかなる許可もいらないはずです。わたしは宗教そのものを否定するつもりはありません。これまでのシステムやアプローチに問題があれば、やり方を改善すれば済むことです。
わたしは宗教は、「神のファンクラブ」というとらえ方をしてます。神への信仰の在り方は自由です。その中で偉大な調和や癒しの活動をされている方も大勢いらっしゃるでしょう。一部のファンクラブの行いを見て神を否定してしまうのは、神にちょっと失礼かもしれません。

宗教は確かにこれまで一定の役割を果たして来ました。科学だけでは解決出来ない部分を補完してきたのです。
人生は「なんでもあり」です。たとえば、ある日突然理由もわからずに、最愛の夫を暴漢に襲われて亡くしてしまった女性がいるとします。
彼女が悲嘆の苦しみを乗り越えて「主人は天国で見守ってくれていますから、子供と一緒に力を合わせて強く生きて行きたいと思います」と前向きになっているところに、「あなたのご主人は無になりました。ご主人であったところの炭素ユニットは火葬場において化学的に分解され、空気中に拡散しました」と言っても何の救いにもなりません。霊があるかないかの議論以前の問題です。
しかしわからないことをいいことに「あなたのご主人は霊界で苦しんでいます。それを救うためには、この特製の祈祷壷を・・」というのが今でもあることはご承知の通りです。
次の時代は補完ではなく、科学と宗教は一つのものになるでしょう。

ある人が「神という言葉には手垢がつきすぎた」と言ってましたが、確かにそうです。白髭のおじいさんから始まって千差万別のイメージがあるでしょう。またはイエスや釈迦の顔を思い浮かべるかもしれません。確かに彼らは神であります。宇宙存在もそうです。同様にわたしたちも神です。一つ残らず神なのです。
しかし「神」をエゴの利得のために利用するパターンも各所に見られ、そこから マイナスイメージを増幅させて来た面もありました。

神とは人間一人一人の内側に存在します。
しかし内なる神と言っても「どこに?」というのが正直なところではないでしょうか。この「神」という言葉が、固定観念の壁を創ってしまいます。
「良心」と言い換えてはどうでしょう。これなら感覚的にピンとくる方も多いのではないでしょうか。他人を思いやったりするときに、胸がじわーっと温かくなるあれです。人を助けるために、理屈も打算も飛び越えて火や水の中に飛び込んでしまったり、エゴを満足させると呵責を引き起こすあれです。

わたしにとって神と良心は同じものです。神というのは善悪を超越していますから、良心という言葉もやはり不完全ではありますが、しかしこれも間違いなく神の現れです。
一般に良心という概念は漠然としています。何となくあるものぐらいの感覚でしょうか。または単なる感情や生理機能としてとらえるかもしれません。
わたしの体験からしますと、言葉にするのは難しいのですが、それは意識であり、エネルギーであり、普遍的自己であり、無限の情報(知恵)が詰まった宝庫です。情報はその気になれば誰でも自由にダウンロード出来ます。最初のうちは、まるで自分とは別のものや、自分が二重人格であるかのように感じるかもしれません。
さらにそれは個々に独立して存在するのではなく、すべての人の良心はインターネットのようにネットワークでつながれており、一つのものであるようだということです。集合無意識とかアカシックレコードと呼ばれるものもそうかもしれません。

良心(神)は普段、エゴの支配する砦の奥に幽閉あるいは軟禁されているように見えます。本当は軟禁されたフリでしかなく、見えないところでは活発な活動をしているのですが。
そしてたまに出て来ます。出るときは外部の刺激による感情の起伏を水路として利用します。しかしそれでは受け身な感じですし、姿もぼやーっとしています。
そこでそれと積極的にアクセスするためには瞑想のような手段を使い、エゴを鎮めるわけです。慣れて来ますとだんだんと明確なコミュニケーションがとれるようになります。そのうちホットラインも開設されます。最後には分離の感覚が薄れ、自分がそれになる(あるいは最初からそれ自身であったことに気がつく)でしょう。

最後のところはまだ体験したものではありません。自分自身との統合。わたしはそれを目指して学んでいます。
エゴはそうなることを嫌いますので、必死になって外側に目を向けるように導きます。そして神は複雑になり、どこかにあるものになり、偶像になり、接見許可制になりました。まったくこんな近くにあるものを見逃していたのですから驚きです。神を外側に求めての流浪の旅と苦しみはもう終わりにしたいと思います。神はここにあるのですから。

これからの時代は、一人一人が神として自立します。完全に対等です。その上での宗教やファンクラブやグループになるでしょう。上から教えるピラミッド形式の縦の組織ではなくて、喜びを分かち合う横の組織です。
本当の自立は対立を生み出さず、許容を生み出します。他人との違いを受け入れられるようになります。神が違うのではなく、神を知るのに「合う」やり方が違うだけだからです。

神とは「わたし」です。

 

[2:Title/神を見つける]

精神世界の学びをしていますと、「うーん、素晴らしい!」と思えるものに出会います。それによって気持ちが楽になったり生きる勇気がわいたりします。そして「よし、こんなに素晴らしいものは、他の誰かにも伝えなければ」となります。わたしもそう思います。ここまでは純粋です。
そして張り切るのですが、人を助けたいという思いが、いつの間にかエゴや欲望にすり変わってしまうことが往々にしてあります。人を助けることは「立派で正当な」ことですので、エゴも堂々とまかり通るのです。

神の使徒、正義の味方、真理の普及、エゴがよだれを垂らす項目でもあります。油断すると「せっかく教えているのになんだ!」と、自らを聖人化して独善的になったり、必死になった分だけ見返りや賞賛を求めているのに気づいたりすることもあります。また他人が自分が「正当である」と思った通りに動いてくれないと、苛々したり怒ったり見下したりもします。
地面に細長い棒を何本も立て、その棒の先端で次々と皿を回すというゲームがありますが、エゴで動くときは同じような感じです。皿の回転を維持するためにヘトヘトになります。

「この正義のためには、多少の犠牲もやむを得ない」となったら、相当ヤバイ域に入るでしょう。 犠牲の決定権を握るのはエゴです。その時には神の使徒という名札をつけた魔の使徒になっています。(大きな構図では、それも「お役目」ではありますが)
「人を非難してはいけないと何度言ったらわかるんだ、馬鹿者!」という言葉の矛盾もわからなくなり、真顔で「愛」のムチを振るいます。

わたしは、最初に「間違っている人」や「愚かな人」や「哀れな人」が本当に存在するのかどうかを見ることが大切だと思っています。さらに「するべきこと」や「してはならない」ことがあるのかどうか。神の手の届いてない何かが存在する(し得る)のかどうかです。

「思いが現実を創る」という精神世界の基本があります。そこで「肯定的な思いを持て!肯定的な現実が手に入るぞ」となります。それはその通りです。
しかし肯定的の意味を、宝くじが外れるよりは当たる方が肯定的とか、病気よりも健康の方が肯定的だ、と安易に価値判断すると問題が起こります。
たとえば自分が病気になったときには「肯定的でなかったから病気になってしまったのだ、わたしは失敗した」とか、または病気になった人を見て「思いが悪いのだ」と、どちらにしても裁くことになります。
飛行機事故や大地震などで亡くなる人は、すべて否定的な思いだったのでしょうか?人間智で理解できる範囲は狭いということは、肝に銘じる必要があります。

多くの聖人と呼ばれる人たちが「人生には悲惨しかない」と述べています。これはエゴの観点からすればということでしょう。エゴで価値判断した現象を望むなら必ず悲惨になります。エゴの価値判断とは、中心点「0」のない蜃気楼だからです。

「彼はなぜそうなっているのか(そうなったのか)」
これは頭では理解出来ないことです。バーソロミューという存在が「望みなし」の境地を説いています。
わたしは最初、「何と弱気で消極的な考えなんだ」と思いました。「そんなことはない、望みはある、幸せの法則や鍵があるはずだ」と考えました。しかし外側にはないことに気づきました。
人生はなんでもありです。神を枠にはめられません。最終的に得られた結論の一つはこれでした。なんでもあり。認めたくなくても、これをまず認めることが第一ではないかと思います。なんでもありですが、あるのは神(の現れ)だけです。

もし 彼を、自分(エゴ)が考えるような(幸せの)状態に変えようとして、一方的で無理な努力を積み重ねて行っても、あと一歩のところで彼が協力しなかったり、突然死んでしまったりすれば、怒りや挫折を覚えるかもしれません。
実際には彼には宇宙の秩序が働いているでしょう。原因と結果の法則(天罰は決して存在しません)が働いているでしょう。
しかしその複雑さを理解することは不可能ですし意味が無いことです。超能力等を使って、彼の輪廻転生から生い立ちからをすべて調べあげて、その因果関係を分析すれば・・・しかしその前に自分のことは知っているのでしょうか。

大切なことは、悩み苦しみの中にも神があることを見つけるかどうかだと思います。それを心から納得した上での愛や癒しの分かち合いでないと必ず行き詰まりを経験します。エゴが考えた「これが幸せで、肯定的で、調和なことである」というのを押し付けると、お互いに泥沼に落ちて行きます。

わたしは苦しみの中にある人と縁があったら、その中にある神を一緒に見つける分かち合いをしたいと思います。その人の学びと勇気を賞賛し、ドラマを大きく見て光の構図を発見するのです。その人と縁があったことにも「意味」があります。

口で言うのは簡単ですが、「神も仏もあるものか」としか思えない状況や、冷静に考えるのが困難な場合もあるでしょう。すぐには答えが出ないかもしれません。それでも見つけたいと思っています。
そうでなければ「成功した、失敗した。良い、悪い。正しい、間違った」の繰り返しです。エゴはいつかは「成功・良い・正しい」の三拍子が成立すると囁きますが、嘘です。エゴは「怪我した=悪い。お金を儲けた=良い」と近視眼です。たとえば病の中から大きな悟りを得た聖人も少なくありませんが、エゴは「病気=失敗・たたり・因果応報」などと言うでしょう。

理屈だけで理想の状況・社会・人生像を追い求めますと、そこから脱落する「間違ってしまった」人や「説明のつかない結果」に必ず直面します。そして苦悩と混乱のループにはまってしまいます。システムだけを何度変更しても駄目です。
それはすべての中にある神(の働き)を認めるまで続くでしょう。今ここにある神に気づくまでです。

逆説的ですが、そうなりますと地球には苦しみの存在理由が無くなります。宇宙は無駄なことはしませんから、自動的に苦しみのない新しい時代が始まるでしょう。

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