1996

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[5:Title/無価値感(1)]

「わたしなどは、どうせ大したことはないのだ」

自分にこの言葉を言ったときに、わたしは何を感じるかと言うと、落ち込みや悲しみよりもむしろ安心感を感じる場合があります。自分を卑下し裁いているのに安心感です。何かの約束でも果たせたかのように、ホッとしてしまいます。この言葉は人前でも「堂々と」言えます。その安心感の正体を見ますと、怖れを迂回できて良かったという安心感です。

「わたしは素晴らしいのだ」

自分にこの言葉を言ったときに、わたしは何を感じるかと言うと、喜びよりもむしろ、いたたまれないような気持ちになります。そしてすぐに自分を責め始めます。「思い上がるな」「そういう奢り高ぶった態度は、エゴによるものだ」と、“エゴが”教えてくれます。
この言葉は人前ではなかなか言えません。怖れに直面します。「なーんてね」と語尾に付ければ言えるかもしれません。

人は無価値感という根深いとらわれを持っています。洗脳と言った方が近いかもしれません。自分を落しめて表現することが、「社会通念上」正しいという「常識」です。そしてみんなでビクビクしながら、他人の顔色をうかがいながら、おちゃらけます。心の中に涙雨が降っても、顔は引きつった笑顔を保ちます。さらに「それが社会というものだ、こうあることが常識だ、これが人間の生き方だ」と、作者不明の格言を信じます。
苦しみの中でお互いを牽制します。本当は自分は素晴らしいと信じたいのに出来ないので、素晴らしいと思おうとする人を見つけますと、引きずり降ろしたくなります。すると罪悪感が起こり、ますます自分が嫌いになります。さらにそれでも処理しきれなかったエネルギーは、放射能のように漏れ出して、「いじめ」のような現象となって現れます。

わたしは人から誉められると、喜びが起きると同時に、すぐに動揺や言い訳などの反対のエネルギーも生まれます。「誉められたら素直に喜んではいけない」という、刷り込みスイッチが作動します。この過程は一見正当なようにも感じます。バランスを保つために必要なことのように思われます。しかし何のバランスでしょう。そんなバランスが本当に必要でしょうか。

大きな誤解を抱えています。「自分は素晴らしいと思ったら、どこまででも傲慢になって行く」や「自分を愛したら、エゴ丸出しになり他人など愛せなくなる」などです。これは逆です。
傲慢な人は本当に自分を素晴らしいと思っていて、自分を愛しているでしょうか。人は自分が足りないと思うことを強調したくなるのです。傲慢は自分が嫌いなことの裏返しです。

本当に自分を素晴らしいと思って、自分を愛したときに初めて、人間は謙虚になれるでしょう。そうでなければ謙虚なふりをするだけになります。
自分が嫌いな人が他人を好きになることは難しいでしょう。自分が卑小だと思う人が、他人を偉大だと思うことは出来ないはずです。
それでも人間には理屈では計り知れない偉大さを発揮する場合もあります。どんなに自分を卑下しても、湧き出て来る愛のパワーを押さえきれず、実際に人のために尽くします。まるでブレーキとアクセルをいっしょに踏んでいるかのようです。ブレーキが悲鳴をあげて、白い煙をあげながらでも前に進みます。愛の駆動力の方がはるかに優っているからです。
頭が下がりますが、これは大変なことです。やはりブレーキから足を離すに越したことはありません。そうすればエンジン(愛)本来の駆動力を円滑に伝えられるのですから。

わたしは、卑下と牽制の時代はもう終わりにしたいと思っています。自分が誉められたら喜び、他人が誉められて喜んでいるのを見たら、さらに誉めたいと思います。

 

[6:Title/無価値感(2)]

自分の価値を認める方法ですが、自分で自分の価値が認められないと、他人に「わたしの価値」を聞きたくなります。「わたしなんかとてもとても・・」と言いながら、誰かが「そんなことはないよ、あなたは素晴らしい」と言ってくれないかなあと思います。ところがもし言ってくれたとして、それで満たされるのかというと、満たされません。外側の何かから自分の価値を定義することは不可能なのです。
自分で自分の価値を認めていなければ、誰にどんなに言われても納得できず、永遠に次の証人を探すことになります。もし世界中が認めてくれても、やはり自分が認めなければ駄目です。
お金や物を収集するというアプローチも同じことです。どこか(たとえばいくら貯金するとか、何を買うとか)に、つまり外部の何かに「わたしの価値」の答えを求めても、永遠に満たされないでしょう。歴史を見ればわかります。

また、これさえあれば、こうなれば「わたしは自分を愛せるのだが」というものがあります。わたしの場合はコンプレックスのようなものもあります。「ここさえ何とかなれば」という条件を鍵にしてしまいがちです。しかし条件は常に仮相(変化し、消え去っていくもの)が基準になっています。
たとえば、若くて美しいわたしだから愛すると言えば、年をとったら愛せなくなってしまいます。お金持ちだからも健康だからも、明日はどうなるかわかりません。根本解決にはならないのです。
自らの愛し難い側面は、まさに(自分で選んできた)課題です。無理矢理の物理的な解決策で、刹那的な安堵を得ることも出来ますが、今度はそれを維持するために、常に緊張していなければなりません。たとえばダイエットでしたらば、ちょっと油断して過食して太ったら「何てだらしないんだ」と自分を責めることになります。そして新しい方面の無価値感が誕生します。いたちごっこです。

無価値感を克服するには、問答無用でありのままの自分を愛するしかないでしょう。気に入らないところは、そのまま愛するのです。その部分をまさに愛する理由にします。そんなことをしたら進歩が止まってしまうと考えがちですが、そこから本当の進歩が始まります。
「貧乏を愛したらいつまで経っても貧乏じゃないか、太っていることを愛したらいつまで経っても太ってしまうじゃないか」と思いますが、そんなことはありません。愛するというのは我慢するという意味ではなくて、受け入れるということです。似ているようで全然違うことです。

愛することによって幻想が消え去ります。幻想とはここの最初の方でも書きましたが「基準がない」ということです。誰を基準にしているのか、何と比べているのか、本当にそれが誰もが納得する基準点「0」なのかということです。
自分で勝手に幻想の基準点を創って苦しんでいたに過ぎないことに気づきます。
そして「わたしが本当に欲しかったのは、比較する基準点や、形容詞ではなくて、幸せや安らぎだったのだ」という当たり前のことに気づきます。

霊的なオチを言ってしまいますと、たとえば先のダイエットの場合、太っている(と信じている)自分をありのままに愛すると、もう太る必要はなくなるので、実は自然に「痩せ」ます。
また、自分の思いが現実を創造しますので、たとえば太っていると揶揄するような人もいなくなります。宇宙そのものは完璧に論理的に出来ていますので、無駄なことをやっている暇はありません。次のゲームが待っています。

嫌っている間は課題が残っているので体は必死に太ろうとします。また「恩人」も応援に派遣されてきます。その点だけを物理的手段で無理矢理解決することもできますが、その場合、結局課題自体は残りますので、他の形で同じ教訓を代替して学ぶことになります。「目の大きさが嫌いだ、鼻の形が嫌いだ、毛深いのが嫌いだ」と無数のパターンが可能で、悩みのレベルは結局同一です。解決を先に持ち越しただけになります。
仮に しらみつぶしに物理的解決をしても、来世でもさらに次の世でも持ち越せます。結局いつかは直面することになります。ありのままの自分を愛せるまでです。

「わたしは素晴らしいのだ」と誰かに言えば、必ず反発されるに決まっていると考えるかもしれませんが、自分で本当にそう思えるようになりますと、それをわざわざ誰かに言ったりする必要がなくなりますので言いません。言いませんが言われます。そしてそれを素直に受け入れますので、ますます素晴らしくなります。

わたしの中では今「そんなことを言ったってねえ・・」という無価値感が現れています。同時に「わたしはこんな偉そうなことを書けるような人間ではございません」と言い訳したり逃げたい気持ちも起こっています。「なーんてね」と書きたくてうずうずします。書いていますが…。

それでも非難するよりも、そういう部分も含めて全て許しながら一歩ずつ行きます。無価値感の中にある自分も愛します。

 

[7:Title/わからない]

わたしはこれまで、病の苦痛に耐えている人や、ハンデを背負っている人や、悩み苦しみの中にある人、また人と人とが争い喧嘩していたりする状況を見ると、胸がジーンとして、悲しくなったり、哀れんだり、イライラしたり、やるせなくなったり、あるいは怒りを覚えたりしました。「なぜなんだ!」という苦しい感覚でした。

最近は、同じ様な状況でやはりジーンとくるのですが、以前とは違った感覚になりつつあります。温かい感じです。人間の偉大さや強さに感動して、嬉しくなったりします。
「素晴らしいなあ」「すごいなあ」「偉いなあ」と尊敬します。そのドラマの背後にある神の働きのようなものを感じます。「ああ、これでいいんだ。全部うまく行ってる」という感じです。だから誰にも何も言わなくて(強制しなくて)いいんだなと思います。

これから、魂の学びをされている方を少し気落ちさせるかもしれないような内容をあえて書きますが、それでも大切なことのように感じます。わたしも一時気落ちしました。投げやりにもなりましたが今はそうではありません。

仮定の話です。道を歩いていますと、川で溺れている一人の女性を発見しました。あなたは彼女を助けるでしょうか。
ところであなたは未来透視能力を持っています。彼女は将来一人の子供を生みますが、彼は数十年後に数百万人のホロコーストを招く独裁者となる人物です。ホロコーストはあなたにかかっています。
ところが更に先を透視して見ますと、その独裁者の孫になる人物は、もはや絶滅寸前の地球の環境問題を解決する画期的な技術を発明する科学者になることがわかりました。
更に先を見ますと、その科学者の孫は他の惑星との宇宙戦争を引き起こす引き金となる人物です。さらにその先を・・・。思いは二転三転します。

ニューエイジでは現代の混沌とした時代が終わると、「至福千年」が訪れると言われています。その時代に向かって多くの方が努力されています。無数のドラマが生まれ人類はそれを勝ち得るでしょう。
しかし「至福“無限”」ではありません。宇宙のサイクルは常に螺旋形を描いています。「善悪」という価値判断で言うならば、永遠にどちらかにだけに偏ることはないのです。たとえばその次は「暗黒千年」になるかもしれません。そしてまた「至福千年」です。

地球という惑星が何億年後かは知りませんが、たとえば太陽に飲み込まれたりして消滅することは一般にも知られています。しかし宇宙には時間という観念はありませんから、地球は今生まれ、同時に今消滅しているのです。地球は実際には存在してないとも言えます。
ちなみに宇宙はいつ生まれたかということですが、数十億年前にビックバンがあったという説があります。しかしそれは過去形ではありません。宇宙は「今」生まれています。ビックバンは永遠に「たった今」起こっているのです。

もう一つ書きます。ある豊かな国の夫婦が貧しい国に旅行に出かけました。その夫婦には子供が出来ませんでした。旅先の国で貧乏に耐えながらも勉学に励み一生懸命に生きている一人の子供を見つけました。夫婦はその子を哀れみ、自分達の養子として迎え入れます。
彼は豊かな国で不自由なく育ち、大人になると貧しい国を援助するための仕事を始めます。立派な業績を残し幸せな一生を送りました。めでたし。やがて彼は寿命が訪れて亡くなります。
しばらくすると、彼はまた地球に生れ変わってきました。今度は何と以前よりももっと貧しい国を選択したのです。食料が乏しく飢え死にするような国です。
必ずそうなるということではありません。魂が、もっとそういう(貧しい国で生きる)経験を望んでいるのならばそうなります。(豊かな国に生まれ、今度は自分を救った夫婦と逆の立場を経験するというパターンもあります。)
わたしはここで夫婦が間違った選択をしたということを言いたいのではありません。素晴らしい選択でした。貧しい人や苦しんでいる人を救っても仕方がないということではないのです。

さて、これまで書いたような状況を踏まえた上で、「それでもやるか」ということです。地球環境のために努力しても地球は本当は存在していません。砂漠を緑にしても、いずれまた砂漠になります。人を苦しい状況から助けても彼はまた同じ状況を選択するかもしれません。病で苦しむ人を超能力で治しても、その人がもっと病が必要ならばまた病みます。
人生は頭では理解できません。1+1=2にならないのです。「人生は素晴らしい」というセミナーの帰り道に交通事故で死ぬ人もいます。

わたしはこれを知ったとき、力がぬけてしまいました。やる気がぬけて、どうでもよくなりました。しばらくボーっとしていました。
そしてどうしてやる気がなくなったのかを考えてみますと、わたしがいかに見返りと結果を求めていたかに気づきました。愛ではなく物理的な結果です。本質から離れていました。

目の前で子供が転んで泣いている。それを助け起こすのに何か理由がいるでしょうか。地球の未来も輪廻転生も関係ありません。人間智ではわからないことです。しかしわからないことを受け入れたら楽になりました。わからなくていいのです。わたしにとって、これは敗北ではなく勝利でした。

大切なことは、「今」愛情が生まれて行動する、それだけです。
シンプルです。他は要りません。
外側の結果にとらわれると、苦しみだけが残るでしょう。今の思いに自信があれば蜃気楼に一喜一憂することはなくなります。
わたしはそれからもう一度元気が出ました。「それでもやろう」という気になりました。何か特別なことをするのではなくて、ただ普通にあるだけです。

イエスや釈迦は、人々の苦しみの中にも、絶望のどん底の中にも神があることを知っていましたので、「何もする必要が無い」と悟っていました。だから助けを求める人には手を貸し、そうでなければただ黙ってありのままの相手を愛し尊敬していたのです。目で見える部分で誰が何をしようとも、相手の本質を見て祈りました。彼らが本当に祈っていたのは、雲の上の神にではなくて、わたしたち人間(神)にだったのです。

 

[8:Title/不完全]

キヨ・ササキ・モンロウさんという方の言葉の中に、「人間は不完全で完全です」というのがあります。不完全であることが標準仕様であって、完全になることは求められていないわけです。そもそも完全の定義などありません。つまり、わたしたちは不完全をやるために人間をやっています。そしてその不完全の経験の中から、大きな気づきと学びが生まれるのです。

クヨクヨして(それも一つの経験ではありますが)しまいますと、せっかくの不完全が生かされません。不完全は人間の特権でもありますから、それを楽しみたいと思います。

神は間違いを裁くどころか、間違える勇気を望んでいます。間違える自他をともに許し、愛することを望んでいます。不完全に見える出来事を開き直るのではなく、憎むのではなく、そこにある神の働きを発見するのです。大きな構図の中では、愛の分かち合いだけが起こっています。結局すべてが完全な流れのもとにあります。

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