1996

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[8:Title/言葉と思い]

ある人に「高級車とはどんな車でか知っていますか」と尋ねてみました。彼は車に詳しい人でしたので「もちろんです」と答えました。
まず彼は、高級車の条件を並べました。4000ccの排気量であるとか、革張りシートであるとか、ツインカムエンジンであるとか専門的なことを含めていろいろな条件を提示しました。
そこでその一つ一つを細かく尋ねてみました。
「たとえば4000CCの排気量が高級車なら、3999と1ccずつ減らしていった場合、どこからが大衆車になるのでしょうか」
「いや、排気量だけのことではなくて、総合的な要素で高級車は決まる。しかしどうしてもというのなら、2500ccぐらいが境目かな」
「2501ccは高級車で、2499ccはそうではないと理解して良いのですか」
「いやそうではないが、大体そのくらいということだ」
「その基準値は他の人も全て同意見ですか」
「だからそれだけではなくて、たとえば・・・(以下”高級車”のカタログにのっているいろいろなデータ)」
しかしどの条件についても、結局は同じ展開で最終的な答えも同じになりました。外側に「誰もが納得する」基準を見つけられません。

少し苛立った彼は、
「たとえばトヨタや日産が高級車と決めたものが高級車なのだ」と言いました。しつこく「それはホンダやGMも同意見ですか。どちらの意見がどこを基準で正しいのですか」と聞きます。
すると「とにかくベンツは高級車だ」と言います。
「アラブの王様も同意見ですか」
「アラブの王様のことなど知らない。普通みんながそれを高級車だと言ってるのだ」
「では、そのみんなとアラブの王様のどちらの意見が正しいのですか、どこを基準にはかるのですか」
「多数決で多い方が正しいのだ」
「それは他の人もすべて同意見ですか」

同じところに戻ってきます。最初に自信満々だった彼の言う高級車の条件は、フォーカスすればするほどぼやけてきました。
そして最終的に彼が自ら下した結論は、「わたしが高級車だと思うものが高級車であり、それ以外に高級車をはかる判断基準はない」ということでした。また、自分は当然高級車について知っていると思っていたのに、それを答えられなかったことに驚いていたようでした。

日常の会話の中で、人はさりげなく、「わたしは貧乏である」とか「わたしは不幸せである」とか「わたしは(〜否定的な何か〜)である」のような言葉を使います。
もし貧乏であるとするなら、誰と比べて貧乏だというのでしょう。たとえば自分がその基準としている「Aさん」がいるならば、その人は本当に金持ちと貧乏の境目でしょうか。Aさんよりも豊かなら金持ちで、貧しければ貧乏だというのは、他の誰もが同意見でしょうか。「誰の基準」でしょうか。

ある修行者は「わたしは贅沢なことはしない、贅沢なものは食べない」といって、自らの持ち物を捨て去り、貧しい服装に着替え、食事も一日一汁一菜にして、「よしこれなら清貧だ」と考えました。
そこにもっと貧乏で餓死しそうな人がやってきて彼を指さし、「ああ贅沢でうらやましい」と言ったとき、その修行者はどこを基準に弁解出来るでしょう。
物を持っていても持っていなくても、服を着ていても、裸でいても、三食食べても、一食に制限しても、同じことでしかなく、自らの思いこみ(エゴの基準値)の中で自己満足を得ていただけでした。

数字にプラスとマイナスという概念があります。それは0が存在するから成立します。ゼロが無ければ+28も−54も存在できません。
世の中には、誰もが当たり前に使っている「善」と「悪」という言葉があります。テレビや新聞などではいつも「あれが善い、これが悪い」と伝えています。しかしわたしはその中間地点「0」を発見することが出来ませんでした。二極化しているはずのものの中心点が見つからなかったのです。

「それなら、マザーテレサと、どこかの国の麻薬王のどっちが善でどっちが悪だかもわからないのか」と言われそうですが、自分に正直に告白すると「わかりません」というのが答えです。もちろんわたしにとっての基準はありますが全くそれだけのものであって、誰か他人に対して「こうである」と言える基準を持っていません。
・・・とはいえ、もし誰かにいきなり殴られたら、わたしはやはり「ムカッ」としてしまうかもしれません。そして頭が冷えてから、なぜ自分がそういう体験を創造したのかを考えるでしょう。まだまだ修行中です…。

わたしは、言葉というのは「最初から壊れている」と感じています。人類は言葉を持ったことによって進化発展したと言われていますが、わたしは逆に「言葉によって人類は本来の進化を妨げられてきたのではないか」とさえ思えます。

人は社会生活の中で会話をしています。しかしわたしは言葉だけでコミュニケーションが成立しているとは思えません。どこにも基準点がないもので会話のしようがないのです。妄想がぶつかり合っているだけです。
たとえばわたしが「赤くきれいな花」と言うと、人はうなずいてくれますが、わたしの言うものと「同じもの」が、単なる音の波形によって誰かに伝わるわけがありません。ではどうしているのでしょう。

コミュニケーションは核になる部分は言葉ではなく「思い」によってなされています。テレパシーというと超能力のように考えがちですが、人類は実は普段から当たり前のようにそれを使っているわけです。しかし普段はそのことに気づかせないための、時には意図的な構造が社会には溢れています。
一般には、「思い」自体はあるにせよ、それは個々人の(肉体)内部範囲にのみ秘匿されているものであって、外部にそのままが一種の情報として直接発信されたり交換されることはなく、あくまで脳内で思いを言語に翻訳したものだけが文字や音声波形などとして相手に届くのだと信じられています。「信じたい」と言ってもいいでしょう。そうでないとエゴは耐えられません。おかげで安心して嘘もつけます(ついたつもりでいられます)。

「思いで会話しているのなら、詐欺など起こるはずがない」という意見もあるでしょうが、詐欺にあう人はそれが詐欺だと本当は気づいているはずです。自分に静かに聞けばわかります。しかしエゴによって目隠しされて、考えを優先し、感じていることを排除しようとしているのかもしれません。

人間が地球において学ぶために、神はいろいろなゲームアイテムを用意されました。言葉もその一つです。ご存じのように三次元世界以外では、こういう形の「言葉」はほとんど使いません。ここでしかこのアイテムは使えないわけです。しかしこれからはそれも次第に要らなくなってきます。
わたしはこの文章をパソコンのモニターに向かって書いています。画面に黒い文字が打ち出されています。これを読まれている方もたぶんモニターの文字か液晶の光などを見ていることだと思います。しかし実際に伝わっているのは、この文字ではありません。この「ただの光のコントラスト」だけでは何も伝わりません。

言葉の茶碗の中には、思いのご飯が入っています。それが人から人へと伝わっていきます。茶碗だけでは何の味もしないわけです。

これからの時代はそのことを多くの人が気がつき始めます。次元が上昇してくると、顔で笑って心の中で舌を出すという芸当がだんだん難しくなってきます。みんなが敏感になるからです。「わかる」ようになります。
最後まで二極性を引きずる人は、素っ裸で町の中を歩くよりも居心地の悪い思いをしなければならなくなるでしょう。

今は「言葉」から「思い」に全てをシフトさせる時代です。全くごまかしようのない「思い」が前面に出てきます。逃げる場所も隠れる手だてもありません。
思いを「正す」方法は、自分や他人の思いを裁いたり罪悪感を持ったり、思いと格闘することからでは出来ません。そこでいつもの結論に戻ってきます。「ありのままの自分を愛する」ことです。

 

[9:Title/癒しとアトランティス]

今から約一万二千年前のアトランティスの滅亡の伝説はご存じの方も多いと思います。クリスタルの乱用によってエネルギーの制御が効かなくなり、地殻変動を誘発して大陸が海底に沈んだ話は聞いたことがあるかもしれません。そこに至る経緯の一つをお話しします。
アトランティスでは、日常的にクリスタルを利用していました。現在でも、このコンピュータにも腕時計にもクリスタルは使われていますが、当時はさらにもっと広範囲に使われていました。
現代との大きな違いは、医学的に頻繁に使われていたことです。癒しの道具として使われていました。しかしそれを重要視するあまり、アトランティス人たちは大切なことを見失ってしまったのです。

たとえば誰かが感情的な混乱に見舞われたとします、すると当時はそれを癒すための施設(神殿)があり、そこでクリスタルによるレーザー照射を使って波動の調整を行い、感情の癒しをしました。
その方法は確かに有効ではあったのですが、それに頼るあまり、シンプルな「愛」を見失ってしまったのです。
苦しみというのは、単なる「厄介者」ではありません。そこには大切な教訓や学びが秘められています。それによって成長をすることが出来るわけです。中でも人と人とのコミュニケーションを通しての癒しは非常に効果的な学びとなります。神殿に行って、レーザー照射をして「はい、終わり」では、せっかくの苦しみが生かされません。

クリスタルテクノロジーによる手軽な癒しのために人と人とが語り合ったり、一緒に問題を解決しあったり、抱きしめあったりという習慣は次第に消滅していきました。それよりも神官の配布するカード(奉仕カードや勤労カード)の点数を集めて、神殿に入る許可をもらう方を人々は選択しました。一定の点数が集まると、たとえば「一等癒し室」に入れるわけです。その判断は神官の手に委ねられました。そして賄賂も横行していきます。学生の頃に世界史で免罪符というのを習った記憶がありますが、そういうものも流行します。歴史は繰り返されたわけです。
無数の癒しグッズやテクノロジーが考案開発されました。もう人は人の顔を見ていません。物を見るようになります。なんと「癒しをめぐっての戦い」が行われたりもしました。

現代のわたしたちは、彼らのことを笑うことは出来ません。「欲しいものの本質」を見失っていることは同様です。何かあるものが欲しいときに、人は「それを通して何が欲しいのでしょう」か、枝葉の先にある幹は何なのでしょうか。

たとえば、お金が大切なものであることには異論はありません。しかしお金そのものをよく見ると、全く当たり前のことですがインクの付いた紙でしかないわけです。お尻を拭くならトイレットペーパーの方が有効です。人はこの「紙」が欲しいわけではないことは明白です。その紙を通して「その先のもの」が欲しいわけです。たとえば物ならば、カメラや家や車などもあるでしょう。
しかしそれが終点でないのは、無人島で一人それらを持っていても嬉しくないことからわかります。それを通して、さらに先のものが欲しいわけです。続けていくと最後に「一番先にある欲しいもの」に突き当たります。
ところが、ときに人は「紙」のために、その「一番先の本当に欲しいもの」を犠牲にしたりします。

アトランティス人たちは「一番先にある欲しいもの」を完全に見失いました。もはやリセットするしか道はなくなったのです。

 

[10:Title/赤ん坊]

今日は、ほんの些細なことで「ムカッ」としてしまいました。怒りや裁きのエネルギーが出てきました。その中で体験したことをいくつか書きます。
怒りの中で、「わたしは怒っている」と気づきました。「怒り」と「わたし」の二つが見つかりました。確かに怒りはここにあるのですが、それを冷静に見ている「わたし」の存在もあります。「わたし」は「ああ怒りがある、まだこういう部分があるんだ、困ったもんだ」とそれを他人事のように見ています。しかし確かに怒っているわけです。

次にはその怒りを止めようと試みました。「わたし」はこれまで精神世界で学んだことを理論理屈で総動員します。怒りがどれだけ理不尽であるかとか、出した怒りは自分に返ってくるとか、人を裁いてはいけないとかです。しかしそのどれもあまり効果はありません。依然として怒りはそこにあり、「わたし」はそれを見ています。

その時ふと、怒りに関わった相手が赤ん坊だった頃の姿が頭に浮かびました。赤ん坊が微笑んでいます。その赤ん坊は全く純真無垢でした。すると突然、怒りはすーっと消えてしまいました。
わたしがその人に対して怒りを感じた内容は、その人の「怖れの反応」に対してでした。
「なぜそんなことでビクビクするんだ。なぜそんなに自分を守らなければならないのだ」「どうして自分のありのままを愛せないのだ」と、ありのままのその人を裁いています…。
頭の中では、精神世界的な「正論」がぐるぐる回って、その人を責めます。わたしは「偉い人」になっているわけです。

その人が赤ん坊だった頃の姿は、理論理屈を超越して、わたしの中の怒りや裁きのエネルギーを中和してしまいました。そして怖れるものを何も持たなかったその人が、怖れるようになるに至った人生の背景がいくつも想像されてきます。
わたしはイヤミな赤ん坊や、猜疑心の強い赤ん坊を見たことがありません。赤ん坊のことを考えると、その誕生を祝福して微笑んでいる両親の姿も見えてきます。希望や勇気や人間の強さ偉大さが見えてきます。そしてそれこそが真実であり、そこから先に培われたこと(その生での学びのために後天的に付加することにした、意図的に波風を起こしドラマを演出するための用件・傾向)は全くの幻想の姿に過ぎないことに気がつきます。

人は、人生の中で傷ついたり挫折したりという経験を通して、臆病になったり、怖れに取り込まれて心を閉ざしてしまったりします。そういった課題を得ることによって、あえて葛藤のドラマを自らに創造し、生から多くを学んでいきます。
つまりその生にどんな課題を青写真としたかによって、脚本(幻想の姿)はいかようにでもなっていきます。今肉体人間として見えている姿は、本人の問題でも罪でも悪でもありません。

今回の場合感じられたビジョンは、生まれたその人が両親からあまり祝福されていない姿でした。それでも赤ん坊は無邪気に微笑んでいました。そこから様々な長いドラマ経験を経てここに至り、偶然ではないわたしとの絡み(お互いに自分を学び合える最適のタイミング)が意図され、独特のドラマを演出してくれたのでした。

落ちついて考えてみると、怒りや裁きの中にあったとき、わたし自身も「怖れ」の中にありました。結局相手は鏡です。そこから抜け出すのに、自他の同一や調和という「真理の言葉」も、あまり役には立ちません。頭では解決できません。それよりも、中心となる部分を頭からハートに移すとき、否定的な思いやエゴは消え去っていくようです。

最後には、この小さなドラマの全体像も見えてきました。こういう脚本を設定して下さった神に感謝の念が起こります。全てのキャスト全ての大道具小道具に至るまで、愛の中にあったわけです。その方も先生でした。おかげ様で学ぶことが出来ました。罪悪感などと言う失礼な感情は持ちません。ただただ感謝があるだけです。

 

[11:Title/エゴを愛する]

刑事ドラマなどで、取調室で刑事が犯人に「お前には罪悪感がないのか」と言う場面を見ることがあります。犯人は「ふん、そんなものあるか!」と開き直ったりします。
しかし実際には、人に罪悪感がない場合には犯罪は起こりません。罪悪感こそが犯罪を起こすのです。後ろめたさが犯罪の原動力です。

エゴというのは、罪悪感や怖れや怒りなどのエネルギーを滋養にして存在します。エゴに対して反発したり戦ったり憎んだり無視したりすれば、エゴは喜んでますます肥え太ります。逆に、エゴをありのままに愛し許容すれば、エゴは骨抜きになってしまいます。
エゴを愛せなどというと、長年エゴと戦い続けてきた人などは目を丸くするかもしれません。そんなことをしたらエゴがいい気になってさらに何をしでかすかわからないと。しかしそれはまるで「エゴは自分ではない」と言っているようなものです。エゴは「子泣き爺」のように背中にのしかかってきた外部のものではありません。

「エゴと呼ばれる部分をわたしは知らない、知りたくない、認めない」と、精神世界や信仰の道に入っている人ほどそういう思いが顕著になる場合があります。いやな部分、不愉快な部分としてそれを見るのを恐がっていると、エゴ幽霊は、次第に妖怪になり大魔王になります。怖れはだんだんひどくなり、それが暴走しても手が付けられない状況に陥ってきます。ところが思い切って直面してみると、なんとエゴは風に揺れるただの柳の木です。

多くの人はエゴを嫌います、自らにその存在さえ認めないこともあります。ところで”誰”がエゴを嫌っているのでしょう。エゴはどこからやってきたのでしょう。”誰”がエゴと戦うのでしょう。
エゴを自分の一部分として認めてしまって大丈夫です。人は決して「それだけ」ではありません。「いい人になる」という幻想と執着を捨て、ありのままの自分になって初めて、自分という存在のコントロールや選択が出来ます。神我でもエゴでも自由に冷静に選択できます。

罪悪感というのは、全くの誤解から生まれます。柳の木が大魔王になっている状況から生まれます。もし「悪」が存在するなら、その人間の呼吸を認めている神が一番の悪の張本人になります。裁判の結果は明白でしょう。誰が悪いのかを探す旅をまだ続けますか?
バーソロミューは、エゴを「親に認めてもらえない子ども」のようなものだと例えています。親は「こんな不良息子は知らない」と言います。すると息子は、親に認めてもらいたくて、泣いたり騒いだり非行に走ったりして注意を引こうとするのです。親をわざと怒らせるような行動をします。しかしありのままの子どもを認めて愛の中で許容すると、もうそういうことをする必要はなくなります。

論理的思考の発想は、拳銃に対しては、大砲で叩きつぶせ、大砲に対してはミサイルで叩きつぶせになります。最後には核爆弾を使った後にこそ神の国が到来するかのような言い方になります。
ハートはそうしません。ただ愛します。そして奇跡が起き、拳銃は水鉄砲になります。

 

[12:Title/祈りと願望]

祈りについて書きます。どのような祈りをなされているでしょうか。あるいは「神と自分」の分離になるという理由で、祈りを卒業されてしまった方もいらっしゃるかもしれません。
ここをお読みになる縁のある方は、たぶん我欲の祈りはされていないことと思います。つまり、宝くじが当たりますようにとか、仕事で誰かに勝てますようにとか、または精神世界グッズを使ったエゴの願望成就の祈りです。

祈りは、他人の調和のためにあるのであって、自分の欲望のためにあるのではないという基本はすでにご存じでしょう。
祈りというのは大きなパワーを持っています。ですからそれを使わないのはもったいないことです。しかし両刃の剣でもあります。不調和な結果創造を恐れて引っ込み思案になり、創造のパワーを使うことを躊躇している方も多いのではないでしょうか。

わたしがお勧めしたいのは、実は“我欲の祈り”です。ただしちょっとコツがあります。
それは祈りの最初に「第一の意図は調和です」と宣言することです。ニ番目以降は自由にお願いして構いません。何が欲しいとか何をしたいとかです。二番目以降の望みは、第一の条件である調和がなされるときだけ成就するように意図するわけです。調和のフィルターを通ったものだけが実現するように祈るのです。ですから安心して「言いたい放題お願い」しましょう。

調和が何であるかは人間智ではわかりません。神に委ねるのが最善です。結果を判断することは意味がないことです。大切なのは「思い」だけです。誰からも見えないようで、実際には全てから丸見えである「思い」です。
「欲」そのものは中立なものです。「欲は悪い」という一面的な見方ではなく、それをどう使うかによって調和も不調和も創造されます。使い方次第で、薬にも毒にもなります。

今の時代は創造のパワーが求められています。またそれを援助するエネルギーも満ち溢れています。神(として存在するわたしたちの側面)は、あらゆるものに平等にエネルギーを分け与えています。それをどう使うかは自由です。

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