1996

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[1:Title/神と魔物]

「神」や「愛」という言葉に嫌悪感を持つ人がいます。そしてその理由を外側に探します。たとえばインチキな宗教があるからとか、世の中には否定的な出来事が満ち溢れているからとかです。しかし自分を正直に観察してみますと、それよりももっと他の理由があることに気がつきます。

多くの人は自分の中に魔物を飼っていると信じています。汚いものや魑魅魍魎がうようよしていると信じています。ですから、「もし万一神のようなものがあって自分を見透かされたら大変だ」と怖れるわけです。
また「愛は、決して自分には取り扱えないものだし、その資格が無い」とわかることを怖れています。それが神や愛への嫌悪感につながります。また自分の内側を見ることを怖れる理由にもなります。

魔物が住んでいるというのは全くの幻想です。エゴによる嘘を信じこまされているだけです。
「しかしわたしはあの時こういうことをやった、こういうことを言った、こういうことを思った。罪深いのだ」と思うかもしれません。それも幻想です。
前に人には天国意識と地獄意識という二つのものがあって、その両方が存在していると書きました。確かに存在していますが、それは「わたし」ではありません。地球というゲームセンターで遊ぶために神が貸してくれたアイテムの一つに過ぎないのです。プールに入るときに身につける水着のようなものです。水着は「わたし」ではありません。プールから出れば脱ぐだけです。

人は自分の内側を見るのをごまかすために、ありとあらゆる手段を駆使します。世の中にはそのために使える道具はいくらでもあります。麻薬のような極端な例だけではなく、日常的なもの、たとえばテレビなどもその強力な道具の一つになり得ます。そこで他人や外側に見えるものを研究して、裁いたり比較差別することによって気を紛らわせます。

勇気を持って自分の内側を見ることをお薦めします。幻想のベールを一枚ずつはがしながら、掘り下げて掘り下げて見ます。決して内側に魔物は見つかりません。エゴが柳の木を幽霊にしているだけです。
勇気を持って内側を見れば、必ずわかります。それどころか、神や愛がみつかります。全ての人がもれなくそうです。
「自分とは誰か」に気がつけば、(外部的偶像崇拝的な意味での)神への信仰は要らなくなります。自分自身が神になりますから、自分自身を信仰するようになります。自分のエゴをではなくて、自分の「本質」をです。そして憑き物が落ちたようにリラックスできます。安らぎが訪れます。
内側を見ることを、エゴは「やめろ」というでしょう。努力と時間がかかるかもしれません。しかし、やる価値はあります。人の一番中心にある本質は、常に光であります。それ以外は幻想です。大丈夫です。

 

[2:Title/真理の波動]

真理の書物は、目の不自由な方には読めないでしょう。

真理の言葉は、耳の不自由な方には聞こえないでしょう。

どうぞ皆様の、真理の波動を大切にして下さい。

真理の波動は、全てのものとつながります。

真理の波動は、作り上げる必要はありません。皆様の中にすでに存在しています。

ただそれを見つけるだけです。

 

[3:Title/怖れ(1)]

怖れというのは、毎日のようにやってきます。怖れがやって来ると体は緊張し、呼吸は浅くなり、何とも言えないムカムカしたような不快な気持ちになります。普通はそこから逃げたくなりますが、逃げても逃げても、問題を先送りするだけになり、埒が開かないことは明白です。
また、怖れの原因を外側の何かのせいにするというやり方は、わたしも散々やりましたが、それは怖れをさらに強化するだけになりました。
怖れから逃げるための代償は、計り知れない場合もあります。とにかく自分が助かりたいという思いから、時には回りをひどく傷つけることも厭いません。結局自分も傷つきます。当然次回は同条件でもっと怖れるという悪循環になるわけです。
そうならないための解決方法は唯一怖れに直面し正体を見極めることしかないと言えます。

それだけの影響力を持ちながら、怖れは実体を持ちません。宣伝文句だけで形成されています。商品の存在しないコマーシャルのようになっています。偽の台風情報とも言えます。「たった今台風が直撃しています」というニュースに、慌てて雨戸に杭を打ち、防災頭巾を頭にかぶって家の中で震えているような状況です。勇気を出して空を見上げれば快晴なのですが。

そうはいっても、わたしも毎日のように怖れは現れます。これまでに随分たくさんの怖れをため込んできたのでしょう。納屋の奥から次々と出てきます。その度に「ヒーヒー」言ってはいますが、逃げるよりも直面してやろうというところにまでにはなっています。逃げるのにはもう飽きましたので、これしか選択が無いと言えます。

わたしが過去に怖れに取り囲まれた時の経験を書きますが、その時もやはり、体は緊張し、呼吸は浅くなり、ムカムカしました。みぞおちからエネルギーが抜けて行き、とにかくどんな手段を使ってもその場や環境から逃げ出したいという気持ちになります。頭では怖れの特性について学んでいましたから、選択だけがありました。逃げるか突っ込むかです。
逃げたらまた同じ様な状況で怖れることは目にみえています。怖れの脅迫も時間を追って激しくなってきます。わたしはヤケクソでその状況の中に突っ込んで見ました。

冷や汗が出て、怖れのレベルゲージはぐんぐん上がって行きます。怖れの皆さんが肩を組んで大合唱しています。
しかし、無限に上がって行くかに思われたそれは、直面した途端にカクンと消え去ってしまいました。怖れが前もって用意していた、直面したらこうなるという否定的なリストは、実際に起こった現実にはどれも当てはまりませんでした。あれだけ時間をかけてリストを作成して、一生懸命心配したのにです。「何だこれは」と呆気にとられます。悪い夢から目覚めたように、快適な朝の日差しだけがありました。
そして今では、同じ様な状況になっても、もう怖れは起きません。一つマスターしたわけです。それでも怖れはしつこいですから、「あの時はたまたまそうだったんだ」と例によって脅迫しています。

わたしの納屋の中にはまだ古い怖れが、埃をかぶって寝ています。どれだけあるかはわかりませんが、一つずつ丹念に光の中にさらして溶かして行く作業をこれからも続けます。
ここもその手段の一つであります。「ある状況」などとぼかして書いているのは、怖れがあるからです。それを徐々にさらけ出していけるようにするのが、ここでのレッスンでもあります。怖れが一番「恐れる」のは、裏舞台から表に引っぱり出されることです。焦らず一歩ずつ行くしかありません。

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