1996

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[1:Title/ヴォイド]

しばらくヴォイド(空)と呼ばれる状態に入っていました。
この言葉は「スピリチュアル・グロース」という本の中でオリンという存在によって紹介されているのですが、「慣れ親しんだ組織、習慣、考え方、信念、態度を後に残し、より高い波動にあった新しいものを創造するために、自己の内面の奥深くに入り込む」時期のことを言います。
「新しい自分にもはや合わなくなっている、人格的自己の一面を捨てようとするとき」に起こる移行と変化の状態です。期間的にはその時々で数日から数ヶ月までのいろいろな幅があるのですが、今回は久しぶりに少し長かったようです。
わたしの場合は、ここにある程度書くことを書いてしまったことと、それからある人間関係のことで執着を外すという課題がヴォイドに入る一つの引き金になりました。

ヴォイドは、二つの出来事の間の「どうしたらいいかわからない」時期で、慣れないうちはその非常な不安定さに混乱を経験します。小船は岸から離れたが、まだ対岸には着いてないという状態で、川の流れに翻弄されているような感覚です。

これまで学んできたものが急に信じられなくなって、ズーンと落ち込んだり、「わたしは間違ってしまったのではないだろうか」と自分を責めたり、削除寸前のエゴが最後の力を振り絞って戦いを挑んできたりとハードな時期でもあります。

普通は瞑想したり波動の高い本を読んだり、リラックスする何かをすることで回復しますが、重い時にはそれをする元気もなくて、自暴自棄のようになったり、怖れに取り囲まれて因習に逆戻りしてしまいそうになることもあります。
いらいらしたり悲しくなったり苦しくなったり不安になったり、そうかと思うと今まで気がつかなかった美しいものを発見して感動したり、至福の状態になったりと、慣れてくれば見方一つで面白い時期でもあります。それでもやはり「現場」ではヒーヒー言ってますが…。

ヴォイドの時期というのは、わたしの感じでは、パソコン(Windows95)で例えると、不要なファイルを削除してスキャンディスク(不良ファイルのチェック)をし、デフラグ(ファイルの配置最適化)をしている状態のことでしょうか。(えーと、Macの例えはわからない・・)
見た目の変化は特に起きていなくても内的作業の行われている時期で、今回も妙に眠くなったり、何もしないのに疲れてしまったりということがありました。内面にエネルギーが注がれていますので、外面的な行動を差し控えることが大切になってきます。

螺旋の構造というのは自然界の中に多く見られますが、人間も自然の一部なので(霊的)成長に関してもそれは適用されます。グーンと成長したらその反対側を経験します。成長が著しければ著しいだけ、それなりの反対の極を経験することになります。
右と左、陽と陰、プラスとマイナス、動と静、両極の経験を一セットとして次の段階に成長していくようです。反対側は避けたいというのは本音ですが、それを乗り越えることによって勇気や信頼やコシの強さが身に付きます。
ですからヴォイドに入るというのは、決して卑下する状態ではなくて、むしろそれだけ成長したという証しですから胸を張って誇りましょう。

わたしはある時期は週一ぐらいのペースでヴォイドに入っていたこともありましたが、最近はしばらく無かったので油断してたら、でかいのがまとめてドーンときました。それでももうヴォイドには随分慣れたので、「ま、なるようになるでしょ」と開き直ってぼーっとしていました。
デフラグ中に他のプログラムを実行することも出来なくはないですがやはり重たくなるし、その時には何もしないでいるのが一番いいでしょう。
また、あんまりジタバタしていると、「ちょっとは落ち着きなさい」と、強引な停止策として、自分に軽い病気や怪我を創り出す場合もあるようです。
ヴォイドは静を学ぶ時期であるともいえます。どんなにエンジン性能の良い車でもブレーキが効かないのでは使えません。止まることをマスターするのは大切な要素です。

ヴォイドに入っている期間は、はっきり言ってキツイ状態でありますが、何度も経験しているうちに次第に慣れて「楽々」になってきます。そしてその中で得る宝石は必ずあとで役に立ちます。
ヴォイドには必ず終わりが来ますし、次に自分がやりたいことや望むものが、自然と明確になってきます。波動が高まり、自分に対しても「世界」に対してもより肯定的で愛情深くなります。時間の問題ですから焦らずのーんびり行きましょう。全てはうまく行っています。

わたしはまだ完全ではないけど、こうやって書けるということは、今日あたりになってそろそろヴォイドから抜けつつあります。因習時代に執着していたものも、いくつか外れました。新しい視野とともに何が起きるのか、宇宙のプレゼントを楽しみに一歩ずつ経験して行きます。

[10.24/β1]

ヴォイドが開けたら、新しいものが次々とやってきました。ちょっと消化不良気味です。ある程度まとまってから書こうかと思いましたが、ライブでいいだろうということで、少しずつ書きながら整理していきます。

ここからは自分で試行錯誤と実験しながらですので、途中で行き詰まったり考えが変わったりするかもしれません。その時は「ごめんなさい」と報告して改訂しますのでご了承下さい。
「新しいもの」には異端で非常識であるがゆえに、人によっては不愉快に感じる内容もあるかもしれませんが、その時は「そういう考えの人もいるのね、ふーん」ぐらいで、軽く流して下されば幸いです。

ここのところ「バーソロミュー3」という本を読み返していまして、今回は以前に読んだときには気がつかなかった部分が妙に引っかかって、しばらく考えていました。
バーソロミューは悟りに至ったときの一つの状態を言葉にしてこう書いています。

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「自分の想念や観念がいかに不安定で変わりやすいものであるか、ということが本当にわかってくると、何かを考えているときにも、じつは思考している主体は誰もいないのだということに気付きます」

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たとえば「嫉妬する」という感情・想念が生まれたとき、人はてっきりそれを自分がやっているのだと思います。
ところが、好きな人が浮気したとか、ライバルに先を越されたという時に嫉妬の炎を燃え上がらせている、その嫉妬を創造している張本人がどこにもいないということです。

普通は、自分がそれをやっているつもりになって、自分のせいにして苦しみます。「こんなことを思うなんて、なんてわたしはイヤな(悪い・ひどい)やつなんだ」などです。そして罪悪感に陥り、罪悪感は、それに沿った現実(いわゆる否定的と呼ばれるもの)を創造します。

自分の中には思考者も行為者もいない。・・だとしたら(嫉妬を)誰がやっているのでしょうか、あるいはそれらの想念はどこからくるのかということです。
ここにしばらく引っかかっていました。

 

人間には頭脳があります。しかし脳を動かしているものは何なのでしょう。脳が全てであるという考え方では、その脳を存在させている“存在”や意味を説明できません。
イマジンの音楽が流れているラジオがあります。そのラジオを分解してあらゆるパーツを綿密に研究すれば、それによって多くのことがわかるでしょう。なぜ音が鳴るのか、どうすれば音色が良くなるのか、チューニングを合わせるにはどうしたらいいのか・・。
しかしとうとうラジオの中にジョン・レノンは発見できません。ジョンがどうやってイマジンをイマジンしたのかに至っては、尚更わからないわけです。

想念はどこから来るのか。もしかすると来るのではなくて、すでに存在しているのかもしれない。自分や誰かが生み出しているのではなくて、最初からそこにある。

あらゆる想念感情は、宙(宇宙)にふらふらと漂っていて、人は魚を釣るようにそれを釣り上げているだけなのではないか。しかし、釣り上げると言うと行為になってしまうし、二つのものと距離が必要になってしまうので、正確には何と言ったらいいのでしょう、ある本で読んだ言葉を引用すると、全てが一つの中に「たたみ込まれている」という感じでしょうか。
全てが 同時に存在するので、思考者というよりも何かを新たに思考する余地がありません。一つなので、思考していない状態から、新たに思考するという段階手続きがあり得ないわけです。
その「一つ」というのが「わたし」です。

確かにその想念を選択しているとしても、それは膿でも間違いでも、失敗でもない。バイキングで、何かの料理を自分のテーブルに運んできたとしても、その味付けに自体関しては自分には責任はないということです。

続きます・・。

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