1996

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[5:Title/共時性]

「100匹目の猿」という話をご存じの方は多いかもしれません。
あるモンキーセンターで一匹の猿が、道具の画期的な使い方を発見します。それを見ていた仲間の猿たちが次々と真似を始めます。そしてその数が100匹(一定数)を迎えたところで、そこから数百キロも離れたところにある猿山の一匹の猿が同じ道具の使い方をし始めるという話です。
そこには物理的な形での接触やコミュニケーションは存在していません。情報はどこから伝わっているかというと、猿という種における集合(無)意識と呼ばれる、「一つのもの」の中での共時的な伝達があるわけです。
これは当然人間の世界の中でも起こっています。例を挙げればきりがありませんが、特に信仰や精神世界の学びに入られた方は、御自分の実体験として経験されていることでしょう。思い込みや偶然の一致という言葉だけでは片づけられない体験、他人にうまく説明できないのだけど、自分にだけは「ああそうか、そういうことか」とわかる体験が多いと思います。

神(あるいはハイアーセルフでも宇宙意識でもいいのですが)は、そういう体験を一つの学びの後押しカンフル剤として与えます。やる気が続くようにということでしょうか。特に自分しか証人がいないような場面では、相当「強引」なこともします。その強引さには思わず笑ってしまうようなこともしばしばですが、逆に「もう勘弁してくれー」と哀願したくなるようなパターンもあります。もちろん「良かれ」の意図しかないのですが。

わたしもさまざまな体験をしてきました。光の天使が宙を舞い踊るような体験ではありませんが、小さく静かな奇跡の連続でした。最初の内は驚いたり戸惑ったりしたこともありましたが、最近では慣れて、そういうものだと当たり前のように受けとめています。
たとえば、ある学びの本のことを知ったときに、直感ではたぶん読んだ方がいいだろうと思うのですが、今は面倒くさいとか他のことがしたいとかと、うだうだしていますと、必要な場合には本の方から歩いてきます。
普段よく立ち寄る駅前の小さな書店に何気なく出かけますと、精神世界の、その中でもさらにマニアックなジャンルの本など全く取り扱っていないその書店の棚に、何の脈絡もなくその本が一冊だけ置いてあるのを発見したりします。その本が一般の文芸書に混ざってそこにあるのが変だということは、たぶんわたししか気がつかないでしょう。
あらゆる「偶然(必然)」の経過を通って、書店の方が「(無)意識」に取り寄せたわけです。宇宙はそのくらいのことは平気でやります。
わたしがこれまでに読んだ本には無理に探して買いに行ったものはほとんどありません。必要なものは大抵向こうからやってきます。逆に(自我で)探しに行こうとすると、見つからなかったり、ちょうど書店が定休日だったりしました。

わたしはこれまで共時性というのは、こういう学びを始めたために頻繁に起こってきたのだと思っていましたが、最近は違った認識を持っています。それは共時性は、たまに起こるのではなくて、全ての瞬間がそうであるということです。つまり学びによって共時性を引き起こすのではなくて、学びが「すでにある」共時性の気づきにつながるということです。学びが深まれば気づきも深まります。上に書いた、本が歩いてくる話は特別なことではなく、誰にでも「起こっている」ことでもあります。それに気づくかどうかです。
この世に、共時性でないものは存在しないようです。たとえばバスに乗ったとき、そこに乗っている乗客メンバー(たとえ一言も会話を交わすことがなくても)に偶然な人は存在しません。公衆トイレに入ったら紙がなかったことも、駅の階段で転んだおじさんを目撃したことも、台所でゴキブリを発見したことも、靴下に穴が開いたことも、今こうしてキーボードを叩いていることも偶然ではないでしょう。それらの必然性が常にわかるとは限りませんが、学びとともに何かの働き(意味)があることがだんだん分かってきます。

最近の体験を書きます。 わたしはある催しに参加しました。多くの人が集まる会場の中に一人、話をしたいと思う人がいました。しかしその動機となるものは、正直申しまして畏敬の念に根ざしたものではなく、わたしのエゴや欲望を表現するためのものでした。
わたしはその場でそのことを分かっていましたがエゴに押し切られ、わからないフリをします。そして何とかその人に話しかける機会をうかがっていました。
ところがその人に近づこうとしても、隣に一人のおばさんが座っていて、どうしても席を空けません。その人の知り合いでもないのに頑としてそこから動かないのです。わたしは「おばさんどいてよ」と念を送りますが、何時間経ってもどきません。他に座る場所はいくらでもあるのに、不自然なほどにどかないのです。常に壁のようになってそこに立ちふさがっています。
エゴは焦り、いらいらしています。事態は進展せず、そうこうしているうちにわたしは今を冷静に感じる余裕が出てきました。いったい何が起こっているのだろうと考えます。
するとその時一つの気づきが起こりました。それは「このおばさんはわたしなのだ」というものです。
その人と関わろうとすることに対して、エゴが欲望を満たそうと腐心している反面、内側にはそれを止めたい気持ちが存在していました。良心は畏敬の念のないことはしたくないと訴えていました。それが現象となって現れたのが、そのおばさんでした。おばさんをそこに配置して、わたしの動きを抑制していたのは、「わたし」だったわけです。
そのことに気づき、ふと顔を上げると、あれだけ頑固だったおばさんはそこにはいませんでした。隣の席は空きましたが、わたしはもうエゴを表現することはしませんでした。

共時性ということを突き詰めると、わたしたちは線路の上を歩いているとも言えます。しかし同時に自由選択の中にもいます。
A・B・Cという選択肢があった場合、どれを自由に選択することもできます。ところがもし自由にAを選択したとしても、それは結局宇宙の予定通りだったりします。釈迦の手の中を自由に飛び回る孫悟空です。
それはつまらないことでしょうか。それともそこに楽しみを発見できるでしょうか。
わたしはそこから大いなる安心感を得られると感じています。この世界の本質は体験です。現象世界に何かを作り上げること自体にはあまり意味はありません。それらはいずれ消え去ってしまうものですから。バベルの塔や万里の長城を造ることそのものよりも、そこから何を体験するかです。
気づきによって、よい意味での開き直りが起こります。現象界に存在しているものが夢幻のもののように見えてきます。怒りよりも許し、不調和よりも調和を選択して、リラックスして映画を楽しめるようになります。
わたしは誰で、「今」何が起こっているのだろうという問いかけは、大切なものであると感じています。

 

[6:Title/<お茶の時間>]

「インターネットは面白そうだなあ」と思って、あるときふとHTMLの書き方の本を買ってから数週間後にはこれを始めていました。必要な道具は気がついたときには揃っていました。それからバタバタしながらあっという間にここまできてしまったので、一度落ち着いて振り返ることにしました。

皆様からメールや御反響をいただきますと、さまざまな学びがあります。励まされて簡単に「いい気」になったり、あるときは落ち込んだりもします。
わたしはここを始める前に、いくつか決めていたことの一つに「書こうとしない」というのがありました。しかし「いい気」になりますと、書こうとしてしまいます。書こうとするときにはエゴに支配されています。これはこの世界では極めて陥りやすい境界線で、宇宙とエゴがいつの間にか入れ代わってしまったことに気付かずに、どこまでも突っ走ってしまうという例のパターンを生み出します。
宇宙は自由を尊重しますから、「ちょっと待て」とは言ってくれません。気付かなければ気付くまで待つでしょう。名前や経歴を書かないのも、それを背負ってしまうと、正直さを見失ってしまうような気がしているからです。わたしはまだ自我を制御しきれているとは言えませんので、無名を選択しています。(世の中には価値判断が、まだ常に存在してしまいますので、しばらくはいちいち脚注が必要になってしまいますが、わたしの選択というのは、単にわたしの選択、60億分の1の選択というだけで、それ以上でもそれ以下でもありません。良い悪いではないということをしつこく書きます)

また、落ち込むというのは、「これは正しいわけではない」と言っている割には、自分の「正しさ」にとらわれているということでしょう。反省したり混乱したり、落ち込んだかと思うと急に元気になったりと、わたしはそういう中で学んでいる普通の修行者です。内面の旅は深遠で複雑です。大変ですが、それだけに面白いとも言えます。

ここには「宇宙を相手にした独り言」を書いています。これからもそれを淡々と続けるだけです。わたしはこれまでの数年間、それを自分一人でワープロに向かってやってきました。わたしの場合はそういう学び方でした。ここはインターネットを機会に、その場所を電気のクモの巣の上に移して、他の人もついでに覗けるようにしたものです。そして皆様の反応からわたしも多くのことを学べます。ありがたい分かち合いです。
ですから必要な方が自由意志でここを見つけて、もし使える部分があったら使ってもらうというのがわたしの意図するところです。わたしが書いていることが、誰より正しいか、誰より間違っているかはわかりません。その外側の「誰」を探しても意味がないことですし、それに時間を使う気持ちもありません。
あくまで皆様お一人お一人が教祖でありグルでありますので、ここはただの道具の一つであります。イメージとしては宇宙の公衆電話ですが、かけてくる向こう側の存在についてはまったく保証はできません。わたしのその時の波動の状態と同じものを引き寄せるとしか言いいようがないのです。注意はしますが、その時々で波動は上下しますので、内容を鵜呑みにすることは危険なことでもあります。

あなたにとりまして、あなた以上に師になる存在はないことは言うまでもないことです。内なる師の言葉だけを鵜呑みにして下さいますようにお願いいたします。
必要なものは常に内側にあります。わたし自身を含めまして外側に目を眩ませないようにしたいものです。そして繰り返しと試行錯誤の実践の中で成長していきます。

それぞれの方がそれぞれのやり方で学びをされています。そのどれもが貴重でかけがえのない大切なものです。ある方にメールでも書きましたが、ジグゾーパズルの一片が欠けただけでも絵は完成しません。一人一人には、宇宙によって必要な道が自然に用意されています。どのような道であっても「神の道」です。決して上下というものはないのです。神に上下はつけられないからです。

これまでに皆様から、「スターピープル」について、ここがわかりにくいとか、長すぎる文章は読みにくいとか他さまざまなご指摘をいただきましたので、近いうちに構成的に少しだけリニューアルいたしますが、やることには変わりありません。ただ書いていくだけです。書きながらわたしは読者でもあります。ここは基本的には「わたし」のためにあると言えます。
貴重なご意見やご感想を下さった皆様には心より感謝申し上げます。これからもどうぞ宜しくお願いいたします。

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