1996

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[4:Title/「今」何が存在するか]

「今」、まさに今ここに何が存在しているのかを見てみます。最初に光る文字が見えます。これです。モニターの中で光っています。下の方にキーボードが見えます。さらに自分の体が見えます。回りを見渡して見ますと、部屋が見えます。部屋にいろいろなものがあるのが見えます。

過去は存在しているかどうかを「見て」みます。手元に50円玉が一枚転がっていました。それを見ると、昭和49年と刻印してあります。昭和49年が存在している証拠でしょうか。慎重に見ると、その「昭和49年」を見ているのは、「今」であることに気がつきます。
未来は存在しているかどうか「見て」みます。時計をしばらく眺めていますと、秒針が動いていることが確認できます。長針と短針が数時間後にどこを指すかを予想することは出来ますが、「今」はそれが見えません。絶対にそこを指すかというと、あるいは数分後に電池切れで時計が止まってしまうかもしれないので断言できません。あるいは自分の心臓が止まるか、どちらにしても、「今」は未来が見えません。
過去や未来というのは独立しては存在しません。「今の中」にのみ存在するとも言えます。それなのにわたしは、「今」の中で、「今」から外れて、過去を後悔して苦しんだり、未来の不安に怯えたりします。多くの時間を幻想の過去と未来を行き来することに費やしても、「今」の中では全く役に立ちません。今存在しているのは「今」だけです。永遠に今だけが続いていきます。

子どもの頃、教科書やノートの隅に小さな絵を描いて、それを次々とめくって動かす、いわゆるパラパラ漫画で遊んだことがあります。アニメーションは時間軸に沿って動いているので、最初のページの絵は過去であり、最後のページは未来に当たるでしょう。
今度は絵を描くときに、一つ一つの絵の横に、それをいつ描いているのかをサインのように一つずつ記していきます。そしてパラパラめくってみますと、やはり時間が経過し絵は動いているのに、文字は変わらないことに気づきます。
つまり、 全ページには「今」という単語が書かれているはずです。最初のページに「過去」とか最終ページに「未来」とは書かれていません。

時間の流れを考えるときに、

過去->->->->->->現在->->->->->->-未来

とするのは幻想です。実際の流れにあるのは、

今今今今今今今今今今今今今今今今今今

です。今が繰り返されています。
過去のその時点においては「今」だったし、未来のその時点においても、そこは「今」です。つまり「今」しか存在していません。

さて、わたしは今、わたしの家族や知り合いや車や、アメリカ人やペンギンが存在しているのではないかと思っていますが、それは幻想です。「今」この部屋においてそれらは見えません。首を回して見えるものが存在しています。それだけがリアルです。
ところがわたしは幻想である見えない何かや誰かのことで心配したり、悩んだり、苦しんだりします。そして「今」ここにあるものから目を逸らしてしまいます。実際に“ある”物を見ずに、実際に“ない”物を見ます。
「今の時間」だけが使えて、「今あるもの」だけが使えるのに、わざわざ使えないものに執着するとは何ともったいないことでしょう。

ところで、これを読まれている方が、これを書いているわたしが存在していると思ったら、それも幻想です。あくまで今存在しているのは、目の前のパソコンのモニターに映っている、この「文字」だけです。

それからもう一つ、いつも存在しているつもりになっているにも関わらず、存在していないものがあります。それは自分の頭です。
ダグラス・E・ハーディングというイギリス人が、「自分には頭がない」と説きました。確かにそれは直接見えません。鏡を手に持つと、自分の頭だと思っているものがそこに映っています。しかし、これを慎重に見ると、そこにあるのはわたしの頭ではなくて、鏡であることに気づきます。頭があるはずの部分を手で触れば、確かに感触はあります。叩けば痛い感触がありますが、それはそこに頭があることとは違います。

真下を見ますと、自分の足の先から胸の上の部分あたりまでが見えます。首から上は、頭があるとされているところに溶けています。では頭はどこにあるのかというと、首の上に直径数十センチ大のボールとしてあるのではなくて、見えている物すべてが、見えていること自体、つまり「今」ここにある世界(宇宙)そのものが、わたしの頭であることに、時々…気づきます。
その時は、「わたしの体」と「壁に掛かっている時計」との間に区別はなくなります。 全ては“世界の中に見えているもの”という一括りの中での同一(レベルの)存在です。
自分の体は、三次元世界の風景を説明する際に、ほとんどのものは移動するにも関わらず、常に一番近くにあって、たいてい真下にぶら下がっているという特徴の一つに過ぎないことになります。つまり眼鏡を覗くときに、必ず周囲に見える黒い枠と同じ扱いです。

次に、自分の手を見てみます。するとわたしは「手」だと思っているところを見ます。これが「手」だということに普段は何の疑問も違和感も持っていませんが、「手」というのは、わたしが名付けたものではありません。人類の歴史のどこかで誰かがこれを「手」だと名付けたのでしょう。英語圏の人は「hand」と言います。他の国では違った呼び方をします。わたしは見たことも会ったこともない人の説を鵜呑みにして、この「肌色」の「5本」の「指」がついている物体を、「手」だと思っています。赤ん坊の時には、これが何だかわかりませんでした。大人たちが「これは手だ」というので、「そうかな」と納得して、今日に至っています。
ところでこれらの「本当の名前」が何なのかをわたしは知らない事に気づきます。そこにつながっている「腕」も「肩」も体のどの部分も知りません。部屋を見回してみると、たくさんの物がありますが、わたしの知っているものが一つもないことに気づきます。そういえば言葉もわたしが作ったものではありませんでした。

何があるのだろうともう一度見てみますと、名前のない凹凸のある物体と、色だけがあることが確認できます。それが常に流れています。
さらには物体の存在を認識するには、わたしが使っている炭素ユニット(人間の体)の目の性能に依存しているに過ぎないことに気づきます。視力いくつというレベルです。それによってこのように見えると言うだけで、犬や小鳥には違って見えているでしょう。
もし電子顕微鏡並の視力があれば、違う物が見えるはずです。さらにもっと高性能な、素粒子よりも細かく見えるようなレベルの視力を持っているとしたら、すべてが透けて、最後に見える物は「無(空)」だけです。

確実に存在しているものは何か?

最後に「今」何が存在しているのかをもう一度見ます。すると「わたし」だけが確実に存在していることに気づきます。

 

[5:Title/笑う泣く]

ある方とのメールのやり取りの中で気づき学んだことです。それは「笑う」とか「泣く」ということです。人間の基本的な感情です。幼な子は、それを当たり前のように使います。
大人になると、そこに判断が加わってきます。これは笑う「べき」だろうかとか、ここは泣く「べき」だろうかです。場合によっては、笑うことを相手を落としめるためや、泣くことを誰かをコントロールするために使ったりします。つまり感情を頭でコントロールしようとするわけです。

子供は、おかしいから笑い、悲しいから泣きます。または、くすぐったいから笑い、痛いから泣きます。それがある時点から、それらをコントロールすることが正しいのだと社会に教えられます。あるいは強制されます。しかしその「正しさ」の中から得られるのは、分離と孤独の苦しみです。

現代人は、わたしも含めまして、「傷つく」ということを非常に怖れます。エゴのプロパガンダに完全にやられています。そしてハートを閉じ、怖れながら、必死に感情をコントロールしています。
エゴと怖れと罪悪感は三位一体となり、毎日のように「ハートなどを開いたら、傷つくぞ、やられるぞ、死んでしまうぞ」と脅迫します。そして人々は緊張し苦しみ、猜疑心の中で右往左往します。

真理は本当にシンプルです。たとえばただ笑って、ただ泣けばいいのです。感じればいいわけです。それだけです。それだけなのに、難しいことでもあります。ここを迂回するために、エゴは他のそれらしい方法をいろいろ提示するかもしれません。それによって今日の「複雑な真理」が出来上がっています。
しかしどちらにしてもここを避けては通れないでしょう。感情を価値判断しながらギスギスしている先に天国が形成されるわけがないということは、論理的にもわかることです。
「笑う」や「泣く」というこのシンプルな感情に鍵があります。ここをマスターせずに、他に何を積み重ねても砂上の楼閣になるのではないでしょうか。

わたしもハートのドアをちょっと開いて外を覗きこんでは、「ひー、怖い」バタンと閉めてしまうことの繰り返しをやっています。それでも少しずつでいいから何度も繰り返し、実践と体験の中で学んで行くことが大切だと考えています。ドアがなくなるまでです。

誰でも本当はわかっていることですが、やらなければ、いつまででも苦しみは続きます。勇気を出すか出さないかです。もちろんエゴは大反対します。「うーん・・とりあえず明日」ということで、「来世」「来世」へと解決を先送りすることは出来ますが、遅かれ早かれ、この課題には直面することになるでしょう。この時代は、それをするのにちょうどいい時代(今)かもしれません。

 

[6:Title/怖れ(2)]

わたしは他人に対する怖れを、その他人を相手にして解決することが効果的な方法なのだと考えていましたが、どうやらそれは誤解だということに気づきました。昨日気づいたばかりですが。

他人に対する怖れというのは、相手が何をするか、何を考えているのか、正体が何なのかがわからないことから生まれます。そして怖れの防御線をはり、閉じこもるわけです。さらにそれが分離や対立や孤独という苦悩の元になります。しかし、その構図はあくまで象徴に過ぎないのだということに気づきました。

わたしが本当に怖れていたのは、実は自分自身でした。何をするか、何を考えているのか、正体が何なのかががわからないのは、わたし自身のことだったのです。他人との関りとして創造される現実は、そのことを如実に反映したものでした。

「わたしとは誰なのか」がわかっていないことが怖れの根本原因になっています。ですから、ここを解決せずに、他人(外側)を相手にした怖れの克服を目指しても、多くのことは学べますが、矛盾の中で必ず行き詰まるでしょう。
たぶん、とりあえず「いい人」になって、にこやかに微笑んで終わりかもしれません。「いい人」というのは、「他人のために」というエゴの名目がありますが、本音は「自分が傷つきたくない」という怖れによるものです。

ハートを開くべき対象は、まず自分自身に対してでした。自分自身にハートを開けば、「外側」に対しては、努力しなくても自然に開くことになります。愛する対象は、許す対象は、信じる対象は、自分自身です。するとそれが世界(宇宙)に反映されます。基本なのに忘れていました。

 

[7:Title/いやなもの]

いやのものに出会った。いやなものを見た。いやな経験をした。このとき、わたしには二つの選択があります。

一つは、自分はある日突然何の脈絡もなく世界(宇宙)に襲いかかられ、ひどい目に会ったという見方です。するとわたしは「誰が悪いか」を中心とした、怒りや憎しみなどの否定的な想念を持って対応します。
しかしそれは同時に、わたしは「無力である」ということを自分自身に対して定義づけます。自分は犠牲者であるという考え方です。また「外側」に対する攻撃は、自分の無力感をますます増大させるだけになります。自分が正当だと思うから攻撃するのですが、認めたくなくても、罪悪感のようなエネルギーも自分に付着します。波動も下がります。結果的にそこから得られるのは苦しみだけです。

もう一つは、これは精神世界の基本ですが、あくまで偶然はないという見方です。どんな小さなことであってもです。この現実を創造したのは自分であると認めることです。するとこの経験の中に「何かあるはずだ」ということに気づきます。
さらにそれは宇宙の「良かれ」の意図に基づいているに違いないということもです。そしてその「何か」を探求します。自分の中にあるのに見つけていない、あるいは見つけるのを避けている何かです。結果的には、間違いなく宝物を得ることになります。

また、この二つの選択から、一つのパターンも見い出されます。それは最初の選択をした場合には、必ずいつかまた同じことを、手を変え品を変えて経験(創造)するというものです。二つめの選択肢に気づくまで何度でもです。逃げ道、迂回路はありません。
ときには「クイズみたいのはやめて、もっとわかりやすく言ってくれないか!」と宇宙にドクヅキたくなることもありますが、これが宇宙のやり方であり、地球ゲームのルールなのでしょう。わたしはそれを承知した上でここに参加しています。

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