1996

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[8:Title/合うか合わないか]

助安由吉さんという方が書かれた「希望への道」という本の中の一節に、

「物事は善悪でとらえるものではない。合うか合わないかでとらえるのである。たったこれだけの選択眼で人生は楽しくなる。善悪でとらえると裁くことになるから人生は窮屈になる」

という箇所があります。わたしはこの部分の意味が、しばらくわかりませんでした。

わたしはあるとき病気で入院することになりました。手術の前には麻酔の検査をします。腕に数種類の麻酔を少しずつ注射してその反応によって手術に使える麻酔を見つけるのです。確か5種類の注射をしたと思いますが、その中でわたしが使えるのは2つだけでした。しかし残り3つの麻酔が、麻酔として間違っているわけではありません。人によってはそちらの方が最適の場合もあります。つまりたまたまわたし(の体質)に合わなかっただけです。麻酔なら何でもいいと、無理矢理使用すれば、かえって悪い結果になるでしょう。

精神世界の学びにも、いろいろなやり方があります。頭はすぐに「どれが良いか悪いか、上か下か、正しいか間違っているか」と判断しがちですが、もっと簡単に、「合うか合わないか」でとらえた方がよいのではないかと思います。
ここを読まれた方には、内容的に「んん?」という部分も少なからずあるかもしれません。しかしそれは正常なことです。そうでなければ「わたし」と「あなた」に分離して存在している必要はないわけですから。そしてその中からお互いの調和点を見つけることがこの惑星での学び方なのではないでしょうか。

わたし個人を見ましても、数年前と今とでは違ったものの見方、感じ方考え方をしています。今から見れば当時は「違う」のですが、間違っていたとは思っていません。わたしはその時に「合った」最善の学びをしていました。また、数年後にも今とは違った見方、感じ方考え方をするでしょう。正反対のことを考えているかもしれません。しかし、今が間違っているわけではないのです。人間は神に無断で違うことは出来ないからです。
常に成長することがこの惑星での意義でありますから、「これで絶対だ」と止まってしまっては、もったいないことです。
わたしは今の段階でのわたしの真実を正直に書くしかありません。そしてそれを通して、次の何かが見えて来るのだと信じています。

 

[9:Title/道具]

一人の旅の修行僧がおりました。彼は熱心に仏教を学ぶ者でした。ある日彼が山道を通りかかった時、道端に倒れている一人の西洋人に出会います。その男は重い病気にかかり息も絶え絶えで、命の炎は消える寸前でした。
僧は男を抱き起こすと、男は「旅の人よ、わたしはもうすぐこの世を去ります。わたしはイエス様のいる天国に導かれるでしょうか。わたしは罪深い人生を送ってきました」と言いました。
僧は、「あなたの罪は全て許されています。イエスはあなたを天国で待っています。何も心配はいりません」と答えました。男は安らぎの微笑みを浮かべながら、静かに息を引き取ったのです。
さて、この僧のとった行動は、仏教徒として間違った行動だったでしょうか。仏陀に背信し、戒めを破ったうそつき行為だったでしょうか。
わたしは彼は、本物の仏教徒であると信じています。また同時にキリスト教徒でもあり、神仏の子であります。

世界には無数の宗教宗派があります。その中には偉大な方、素晴らしい方(わたしはあえて聖なる方とお呼びしたい)がたくさん存在しています。
彼らはどの宗教宗派でも偏見はありません。「それそのもの」にはあまり関心はないと言えます。興味はそれをどう生かすかということだけです。
聖なる方は、自分の宗派の教えを、あくまで道具として使います。自他を癒すための道具、安らぎのための道具、調和のための道具です。教えに“使われる”ことはありません。
縁ある人の安らぎのために、たとえば「輪廻転生」という概念が必要ならば、もし自分の宗派の教義で否定されていても、彼らは迷うことなくそれを使うでしょう。

聖なる方は真理の料理人であると例えられます。彼らの関心は、相手が本当に必要とする物を作ることだけです。自分の専門がたまたまフランス料理であっても、相手に生かせるのならば、日本料理でも中華料理でも手法は問わず、必要ならばすべてのエッセンスを取り入れます。
日本そばを求めている人に、スパゲッティーを強制しても駄目でしょう。そのスパゲッティーが、どんなに素晴らしく美味しいものであったとしてもです。彼らはそれを知っています。

わたしは宇宙から多くのことを学びます。その内容のほとんどが当たり前のことであることに、まず驚かされます。さらにその「当たり前」に驚いている自分にも驚きます。
わたしが何が「正しい」のかを必死に追求していた時期に、「どんな宗教に入っているか、どんな祈りをしているか、どんな真理を知っているかではない。大切なのはどれだけ光輝きながら生きているかである」と教えてもらったことがあります。
これも当たり前すぎるぐらいに当たり前のことでありましたが、言われてやっと「はっ」と気づきました。

教えの本質を外れたところでの空回りが、これまでの分離と争い(たとえば宗教戦争など)を生み出してきました。豪華なキッチンの中で新鮮な食材と一流の調理器具に囲まれながら、食べられない料理を作ってきたのかもしれません。しかしこの経験も人類にとっての大切な学びの一つではありました。
これからの時代は、すべての人が本当の目的のために教えや真理知識を使って行くでしょう。調和のために。

 

[10:Title/宇宙と話す]

現在世界中にチャネラーと呼ばれる方がいらっしゃいます。彼らは地球のこの時期に大変に重要な役割を献身的に果たされています。宇宙存在との意識の水路を開くことによって、地球人との物理的な会話を可能にして、変革の時代の手伝いをされています。
しかしこのやり方は、宇宙存在本人もわかっていることですが、緊急事態用の特別な手段で、宇宙法スレスレのやり方です。
これからは、皆様一人一人がチャネラーになることが求められています。宇宙存在とチャネルするのではなく、自分の本質とチャネルするのです。彼らもそれを望んでいます。

わたしはいわゆるチャネラーではありませんので、宇宙存在とトランス状態で会話したり、霊を見たり透視したり、またスプーン曲げもしません(^_^)。
しかし宇宙(自分の本質)と会話することはやっています。といっても大袈裟なことではなく、むしろ大袈裟に考えると失敗します。これはまったく誰にでも出来ることです。ほとんどの人は、しているのにそれに気がついていないという場合が多いのではないでしょうか。
それを意識的にするやり方は簡単ですので、その一つを分かち合いたいと思います。わたしの体験しか書けませんが、やり方は無数にあり、これが正しいという方法はないので、自分なりの「合った」やり方を見つけることが大事になります。一人で出来ます。ご参考にしていただければ幸いです。

<自分に質問する>
やることは、「自分に質問する」。これで全部だと言えます。すると宇宙から答えが返ってきます。儀式や呪文や特別な道具のようなものは基本的には必要ありません。

    ◆二つの声

自分の内側には常に二つの声が存在しています。自我(エゴ)の声と神我(良心)の声です。誰もがそうです。ただしエゴの声は、24時間ハードロック専門のラジオ局のように流れています。それに対して、神我の声は静かなピアノソナタのように流れています。これが同時に鳴っています。(ちなみにわたしはハードロックもクラシックも好きです。あくまで例としてです。
ですから通常は、一つの声しかないと聞こえるかもしれません。神我の声は耳(心)を澄まさないと聞こえないのです。
神我の声はすなわち自分の本質、宇宙の声であり、ハイヤーセルフであり、良心の声です。たまにいわゆる他の宇宙存在とつながることもあります。

◆ 方法

神我の声を聞くためには、自我の声の方を静かにしなければなりません。そのためには瞑想法なども非常に有効な方法ですが、それぞれに合ったやり方があると思います。リラックスして、集中できる状態になることがポイントです。わたしの場合は、普通の瞑想の他に、こうやって文字を打ち込んでいる時に非常に集中した状態になります。そこでワープロに質問を打ち込んで答えを待ちます。他には、風呂に入ったり、森を散歩するというのも合っているようです。その中で神我の小さな声が聞こえてきます。
人によってはクリスタルを使用した方がいい場合もあります。わたしも時々使いますが、道具は使い方を誤ると危険なものにもなりますので、信頼のおける方の情報をもとにされるとよいでしょう。
また、ボディーワークやアロマテラピー、(スピリチュアル)ダンスなども有効かもしれません。

◆注意点

ここで重要な注意点があります。それはこの行為は、両刃の剣であるということです。欲望を持って始めると失敗します。

宇宙存在に問題を解決してもらって楽になりたいとか、
これを誰かに自慢したいとか、これで金儲けしたいとか、
また予言や前世透しなどの超能力を得たいとかです。

そのために正当そうな理由をつけたくなることもあります、たとえば「今友人が苦しんでいる、彼を助けるために、彼の未来を予知する能力が必要だ」などです。エゴは「そうだ、そうだ」といいますが、駄目です。そこからはまって行きます。
これは基本的には他人のためには使えません。あくまで自分の学びに使います。エゴは他人のお悩み相談の答えを用意しますので気をつけましょう。

それから、いらいらしたり、ネガティブな想念になっている時には止めることです。ここが引っ掛かりやす罠です。その状態で始めますと、やはりチャネルは出来ますが、その相手は神我ではありません。暗い波動や欲望の波動には、必ずそれと同じ存在がチャネルしてきます。

また、こういうことが出来るようになりますと、どこからでも足を踏み外す可能性を持っています。相当に慣れた後もです。気づかぬうちに、「自分こそ正しい」などの特別意識や、優越感の虜にならないように注意が必要です。

聞こえるようになると、もっと聞きたくなることも注意点です。たとえば何か悩みごとがあったときに、そこから安直に逃れたいと思うと、「それなら神我に聞けよ」とエゴが囁きます。それにつられると、「わたしは神である。我に従え」と神我に成りすましたエゴがそこいるわけです。場合によってはネガティブな宇宙存在の場合もあります。ここでやられるパターンが数多くあります。エゴは神我に化けるのが得意業であります。
ですからこれをするには、それだけの覚悟と責任が必要です。魔の使徒になった場合は、自分だけの問題では済まされなくなるからです。

◆エゴと神我を見分ける

エゴと神我を見分けるには、ここでも「感じること」が大切になります。エゴは巧妙です、愛とか真理とか調和や思いやりというような“それらしい”言葉を平気で使います。しかし「何か変だ…」と感じることが出来ます。
エゴの言葉には温かさがないのです。大声で高圧的でがさつなな感じがします。また、特徴としては根本に怖れが隠れていますから、メッセージの最終的な結論は「だから、自分を守れ、欲望を満たせ、油断するな、それをやったらひどいことになるぞ」など否定的なものです。
神我の場合は同じ言葉でも、温かい感じがします。ハートの部分が熱くなります。静かで優しくて、やわらかい感じがします。メッセージは「大丈夫です、許しなさい、怖れる必要はありません」などの肯定的なものです。
これを見分けるには、それなりの経験と練習が必要となります。しかし焦りは禁物で、一歩ずつマスターすることです。またエゴに「このやろう!」と言うのもいけません。エゴは狂喜乱舞します。

◆内容

宇宙の語る内容は、そのほとんどが当たり前のことです。自分がいかに当たり前のことを見逃してきたかを教えてくれます。必要がない限り、あるいは取り扱う準備が出来ていない限り、突飛なことを伝えてくることはありません。
それに対してエゴは、いかにも興味を持ちそうなことを語りかけてきます。「裏山を掘ったら札束が出て来るぞ」などと言う場合には、ほとんどがエゴによるものです。その言葉の裏に何を感じるかを見ることが大切です。「そのお金を見つけなければ、わたしは不幸になる」という怖れが隠れているかもしれません。
また内なる声と言っても、はっきりした人の声のように聞こえることは希で、ほとんどは自分の独り言のように聞こえます。「てにをは」も漠然としています。
ですから多くの場合は頭が邪魔して、「ふん、ばかばかしい、気のせいだ」と、せっかくの貴重な情報を見逃してしまうことになるのです。

◆タイミング

答えはすぐに返ってくる場合もありますが、それには執着しないことです。 「答えはまだかまだか」と焦りますと、すぐさまエゴが返答してきます。
答えは必要なタイミングで返ってきますから、リラックスして待つことです。たとえば風呂に入って「あー」と言った瞬間に返ってきたりします。 聞こうとしないことが大切です。

◆日常の準備

エゴは神我を見させないために、あらゆる努力を払います。外側に目を向かせ、意識を翻弄させます。最初は、自分のリラックス出来る何か(環境・方法等)を発見することから始めるといいと思います。
世の中には心を騒がせるものが多数存在していますので難しいことですが、そこからなるべく離れるようにした方がいいでしょう。それからこれはわたしにも耳が痛いことですが、食事はきれいにとることです。過食など「過」がつくものは禁物です。

宇宙と会話出来るようになりますと、本当に安らぎが訪れます。もちろん毎日の生活の中で、いろいろな課題や問題は次々と現れますし、悩んだり苦しんだりもします。
宇宙はたくさんの勇気と励ましをくれますが、特効薬を授けてくれるわけではありません。これを逃げ道にしてぶら下がることは出来ないのです。
しかし宇宙のサポートによって、「大船に乗った気持ち」で課題に対処し学んでいけるようになります。自分が宇宙だということもだんだんわかってきます。

内なる声は、気づいてくれるのを今か今かと待っています。

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