1996

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[11.02/β2]

宇宙には一つのエネルギーだけが存在しています。人はそれを「神」と表現する場合があります。その一つの中に、たとえば上中下(3つ)や善悪(2つ)は存在しません。

嫉妬と呼ばれるエネルギー、彼は自分の名前が「嫉妬」だと知っているのでしょうか。誰が名付け親なのでしょう。

街を歩いていると猫を見かけます。人は「あ、ネコだ」と思いますが、彼らは自分が「猫」だと知っているでしょうか。我が輩は猫であると自覚しているのは小説の中だけです。地球上の生態系における、ほ乳類という位置関係はもちろん、自らが生き物だという客観的自覚さえ微妙です。

一なるエネルギーの断片(の流れ、色)に、それが「嫉妬」であり、否定的で忌み嫌うべきエネルギーだと勝手に定義付けたのは何か・・。だから大変なことだと脅迫したのは誰か。どうもここにエゴのトリックが隠れしているような気がします。

聖書や仏典のみならず、多くの宗教宗派では、「あなたには否定的な(間違った)何かがあり、それを正すべきである」と説きます。そして課題克服のためのあらゆる修行、精神修養をします。
自分を「正す」という学び方は、ある段階(という言葉を使いますが、実際には段階はありません)においては、非常に有効であります。徹底的にやるのは必要でしょう。「すべきだ」「してはならない」も最初のうちは使えます。

わたしもついこの前までそれをやっていました。たとえばいわゆる「否定的な想念」と呼ばれるものが、肉体としての自分の中(だと思っているところ)に見つかり、それはわたしが生産してしまったものだと信じ込みますと、それを排除もしくは正して、一つ一つ改善する学びを続ければ、いつかは完全無欠な何かになるだろうと信じていました。

エゴは、正して正して正しまくって「善」になり、もはや「間違い」を侵さない完璧な境地に至ることが、悟りであると説きます。
しかしそれは嘘で、完璧な状態というのは蜃気楼です。なぜならすでに、最初から完璧な(これ以上にはなりようのない)状態だからです。

確かに「正す」というやり方は一定の効果を上げて来ました。ここまではそれで良かったのだと思います。
いわゆる「良い」想念のみを選択することによって、実際に人生に安らぎが訪れましたし、否定的なものや人や出来事に出会う回数は激減し、にこやかで肯定的なものを主要な現実として創造するようになります。
何か否定的な想念が訪れても、「あっ、いけないいけない、こんなことを思っては(行動しては)」と、すぐさま打ち消します。また良い想念を選択している時には、「よしよし」とエゴも誉めてくれます。

この繰り返しで「もうちょっと」のような気がしていました。
もうちょっとで完璧、もうちょっとで悟り。しかし・・永遠に「もうちょっと」でしょう。
鼻先に吊したニンジンめがけて走る馬と同じ状態です。もうちょっとでそれを食べれるような気になっています。

バーソロミューは「分離のカーテン」という表現を使っています。あそこのカーテンのひだを整えると、こっちが合わなくなる、そこでこちらを整えると、またここがずれる。これをいくら繰り返してもカーテンがエゴの理想通りにぶら下がることはないということです。

エゴの理想とは常に「今よりも良いものが良い」ですからキリがないのです。「これでよし」というのは、怖れや罪悪感を根源とするエゴの仁義に反します。悩み苦しむこと、問題を解決することこそが進歩であり、いつの間にかそれが目的であるかのような「永遠のどこかツアー」に招待されます。
カーテンの動きに問題の焦点を探している内は解決は訪れないでしょう。見るところはそこではないようです。「何が問題か」を考えていること自体が問題でした。

「否定的」と呼ばれるエネルギー(闇)は、ただ削除してポイでは済まされません。捨てる場所はどこにもないのです。全ては一なるものであり、「わたし」だからです。捨てた(つもりになる)ことは、分離の幻想が深まっただけになります。

日常生活で生まれてから今日まで、自分は本当は一度も「ゴミ」を捨てたことがないことを知っています。確かに毎週曜日毎のゴミの日にせっせと集積所にゴミを置いた記憶はあります。しばらくすると清掃車がやってきてゴミは「移動」しました。
これは単に自分の目に見えないところに移動しただけのことであって、実は今も地球上のどこかにあるわけです。可燃ゴミなら燃やすことも出来ても、それは姿形を変え空気中に分解拡散しただけであって、やはり根本的な質量は保存されています。
たとえば10年前に捨てたつもりの生ゴミのほんの一部が、今目の前の空気中を漂っているかもしれません。

同じように「一つ」の「わたし」の中で、何かを、存在しない「どこかの場所」に捨てることは不可能です。

学びの課程においては、ある時点には「正しかった」ことが、理解が進むにつれ色あせてしまって、次には正反対のことを「正しい」こととして学ぶことがありますが、それで“正常”です。

宇宙は頭で量れるほど小さくはないので、「これが絶対真理で終わりだ」ということはありません。「終点」という概念がないのです。
二極性から「一つ」に向かっているこの時代。ここでもう一つのシフトアップが必要なようです。

続きます・・。

 

[11.09/β3a]

直線的時間上の輪廻転生という概念を使った場合、ほとんどの方は数多くの過去生の中で、「すごく良い人」や「すごく悪い人」の両方を、何回かずつは経験しているかもしれません。
ある世では、敬虔な教徒や高僧や奉仕者として「善」のために一生を捧げたり、ある世では、泥棒や人殺しとして「悪」のために一生を捧げたりです。
泥棒の時はともかく、神の使徒や奉仕者として「正義」の一生を貫いた時などは、「やれるだけのことはやった」と思ったでしょう。神仏の教えは守れるだけ守った、戒律・禁欲・断食・瞑想・祈り・難行苦行、何でもやった。真理知識を聞かれれば答えられないものはない人にもなった。時には三次元の法則を超越するような超能力も身に付けた。世間も「素晴らしい人だ」と認めてくれた。これ以上やれることはないところまでやって・・・寿命がきて死んでしまいました。

ところがまた人間をやっています。地球ゲームはまだ終わっていませんでした。つまりこ終了条件を満たしていなかったことになります。

わたしはこれまで「正す」という学びをやって来てわかったことは、わたしは全く正されなかったし、これからも正されないということでした。
学びによって肯定的な現実が「増えた」ので、正されたような気になっていましたが、それは正されたからなったのではなくて、最初からそうなっているものに気づいただけでした。増えたのではなくて、それを認めた、あるいは受け入れる許可を自分に与えたということです。
ラマナ・マハリシの比喩を借りるならば、世の中が常に暗かったのではなく、太陽は最初から存在していて、わたしは夜のみしか見ないフクロウであることを止めただけでした。

わたしに「正す」ように仕向けた依頼人は、実はエゴでした。すでにここの部分から彼の手の中でした。エゴの動きというのはまったく巧妙で、その土俵の中でどう戦っても埒が開かないように出来ています。自分の右腕と左腕との腕相撲のように決着は付きません。エゴ撲滅委員会の名誉会長を、エゴ本人が勤めています。

わたしはこれまでのさまざまな奮闘努力によって、「自分の中」のエゴを処理したり消し去ったりしてきたような気がしていましたが、これも気のせいでした。エゴは実際にはまったく削除されていないし、彼は削除されたふりを演じていただけです。
ついこの前に書いたことと矛盾するようになりますが、エゴは削除することは出来ないし、削除しなくても良いということに気づきました。

宇宙には増えるものも減るものも存在しない。不増不滅。
エゴは、地球で人間をやっている以上、常に「そこにあるもの」であります。

問題点という言い方をするならば、これまでエゴと自分を同一視して来たことでしょう。そして、「否定的」と呼ばれる想念や行動が生まれるたびに「まだまだ駄目だ」と自分を責め、罪悪感を持ち、あわててそれを「正す」修行に明け暮れるというトリックにはまっていたことです。
「これは否定的だから、こうやって肯定的に変える」という繰り返しを、思考と定義の上でだけで納得しようとするわけですが、これは言葉の遊びにしかなりません。机の上の図面をいじることに終始していただけでした。

わたしの今の感覚は、エゴは昔と変わらずに厳然として存在していますし、動いています。またこれまで「否定的な想念」だと信じて来たものもちゃんと存在していますけど、それによって苦しんだりすることはなくなりました。
エゴの動きをある種「他人ごと」のように見ています。エゴを自由にして、その過程を楽しんでいるとも言えます。

エゴを自由にしたら、エゴが暴走して大変なことが起きるというのは、やはりエゴによって教えられて来た嘘です。実際には、エゴを自分と同一視することの方がコントロールを失いやすいでしょう。
たとえば、エゴを自分の中の小さな公園で自由自在に泥んこ遊びをしている小さな子供たちのように見て、わたしは彼らがどんなにはしゃぎ回っても「はいはい、よしよし」と微笑みながら見ている大人(保護者)になりますと、エゴに支配されることはなくなります。

宇宙の法則に、「それについて考えることはむしろその力を増す」というのがありますが、エゴにこれまでエネルギーを与え成長させて来たものは、まさにエゴと対等の立場に立って格闘して来たわたし自身でした。エゴを自由にすると、エゴは消滅はしませんが、無害化することが出来ます。

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