1996

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[1:Title/恩人]

自分自身を正直に見るというのは難しいことです。この法廷には裁判官はいません。検事と弁護士と傍聴人はすべてわたしです。ごまかす気になればいくらでもごまかせるでしょう。そこで第三者の証人(結局はわたし自身なのですが)が必要となります。

この三次元世界は、自分を見るために「外側に見えるもの」を使えるようになっています。しかしそれらはあくまでも「内側」です。わたし自身であります。
外側にはいろいろな物が見えます。その中で自分にとって大きな学びになるものの多くは、否定的に見えるものです。いやな対象物です。

わたしの身の回りにも、そういうものがあります。わたしはそれを見て裁きます。たとえば今日、だらしがない人を見ました。
わたしは「なぜそんなことばかりしているのだ。同じことをいくら繰り返しても意味が無いだろう」「もっと前向きになれ、新しいやり方にどうして気づかないのだ」と思いました。
そしてそれは、認めたくなくても「わたしのこと」です。自分だけでは見ることをためらっている部分を外側を通して発見します。「そんなことはない!」と思いたいのですが、やっぱりそうでした。その人に向かって言ったこと思ったことの全ては、わたし自身を説明するものだったのです。わたしが非難した人は、それを教えてくれるために現れた、わたしにとっての本当の恩人であります。

自我の構図で見ると外側には、嫌な人、むかつく人、いらいらする人、見下したくなる人を発見します。自我のままそれらに接すると、わたしは裁き、彼らがいかに間違っているかを分析、価値判断し、さらに自分がいかに彼らよりも優れていて上等なのかを納得しようとします。
しかし、そうしたいのはそうでないと信じているからに他なりません。強調したい部分は自らの足りない部分なのです。それを証明しています。

神の構図で見ると、わたしに対していわゆる「悪役」として接して来る人は、大恩人であります。誰でも「悪役」よりは「善役」の方がやりたいわけです。わざわざ憎まれ役をかって出てくれる人は、この世界にやって来る前には、つまり「天界」においては、本当の親友であった人です。そうでなければ、この役を引き受けてはくれません。わたしが泣きながら頼んで、その役を引き受けてもらったのです。彼らはわたしの学びのために、わたしを愛してくれるがゆえに引き受けてくれました。人間をやっている時には、その記憶は消されています。あとで再会した時に、どれだけお礼を言えばいいのでしょうか。

人が道を見失うと、宇宙の奉仕のシステムが働き、その人の大恩人である「悪役」が、その人のもとに送られてきます。それは直接的であったり間接的であったり、身近な家族から赤の他人まで様々です。
彼らは自分の人生の時間を削ってまでもその人のために奉仕します。憎まれることは百も承知でです。お互いに自我意識の部分ではそれに気づいていませんが、存在しているのは愛だけです。そして人間の葛藤のドラマが展開され、愛が交換され、学びが生まれます。

「悪役」は大変な過酷な任務です。単に憎まれるだけでは済まない場合もあります。肉体を傷つけあったり、あるいはどちらかが(ときには両方とも)命を失う場合もあります。そこまでして得られる学びもあります。たとえ後で笑顔で再会するにしても、本当に勇気のいることです。

自分自身の気づきと宇宙への感謝とともにその学びは終了します。一つの課題を学ぶのに何度かの生まれ変わりを要する場合もあるでしょう。それでも彼らは約束を果たせてほっとしています。また同時にわたしも彼らの課題の学びにも貢献しています。そこのところは、全くうまく出来ています。神の采配です。
宇宙には無駄なことは起こりませんから、一度マスターしたことを繰り返すことはありません。まだ他に自分の中の見ていない何かがあれば、次の恩人が現れるでしょう。しかし怖れることはありません。本質を見抜けば、課題は楽々とクリアできます。必ずしも派手なドラマを繰り広げなくてもいいわけです。学ぶまでのプロセスには、自由な選択があります。
宇宙は信頼できます。

 

[2:Title/怒りと非難]

自分が本当にマスターしたことを他人がやっても、

怒りや非難は起こりません。

自分がマスターしていないことを他人がやると、

怒りや非難が起こります。

 

[3:Title/わたしのこと(1)]

自分のことを書いて行きます。わたしの場合の、これまでの学びの経緯をまとめる意味もあります。これは最もエゴが出やすい分野でもありますので、小さなことを大きく書かない、大きなことを小さく書かないと、釘をさして続けましょう。

わたしがこの学びを始めるきっかけになったものは、あるときノートパソコンが発売されて、それを買ってワープロ日記をつけたいと思ったことからでした。そもそも学びをするつもりはなくて、日記をつけたいだけだったのです。
当時特別な挫折や切迫する悩みがあったわけではなく、もちろん人並みに悩み苦しみはありましたが、宗教的な何かにすがりたいという気持ちは持っていませんでした。いい時には調子にのって、悪いときには誰かのせいにするという、普通?の生活をしていました。

自分が考え打ち込んだものが、こうしてモニターの上で活字になるということは、とてもワクワクする体験でした。また、手書きの日記のように誰かに読まれる心配もなく自由です。面白くて非常に集中しました。自然に一種の瞑想状態になっていたのです。
そのような調子で日記を始めたのですが、日記がいわゆる日記になっていたのは最初の数日だけでした。いつの間にか反省文のようなことを書いているのです。今日何があったかを書くと、それに対する反省と答えが出て来ます。そのうちに「真理」やら「愛」やらという、普段まったく使い慣れない言葉が出て来ました。「いったい何をやっているんだろう」と思いながらも、人事のようですが、書いていること自体には確かに一理があって、まるで著者と読者を同時にやっているような感じでした。

自分が書いている内容が精神世界やニューエイジという分野だということに気がついたのは、これを始めてからしばらく経ってからのことでした。ですから「内なる神」とか宇宙がどうしたとか、まったく知りません。
答えを読むと確かにすっきりするものがありましたし、とても気持ちが楽になれたので、便利なものだというだけで続けていました。同時に、これを横から誰かに覗かれたら顔から火が出るほど恥ずかしいとも思っていました。愛という言葉には、照れ臭い以上のものがありました。さらに一つだけ避けたい単語がありました。「神」です。とうとうそれが出て来たときには、「あちゃー、やばい方向にはまってきたのでは」と思いました。
それでもこの有用なカウンセラーを捨てるわけにもいかず、うまい具合にここまで引っ張られて来てしまったという感じです。

答えを書いているときですが、これは神秘的な感じとか、いわゆる自動書記のような感じとは違います。自分であって今まで気づいていなかった自分が書いているという感じなのです。言葉では何とも説明できないのですが、胸の奥の方から言葉が湧き出してくるようになります。なぜこんなことを知っていたり、なぜこんなに「ご立派な」ことが書けるのだろうと不思議な気持ちでした。

それまでのわたしは、すぐに他人を差別したり、見下したりする傾向を持っている人間をやっていました。今思えば結局自分を見下していたわけです。それはほんの数年前のことですから、とても誰かに偉そうなことは言えません。
愛と言われても、せいぜい身内や家族の範囲内での「愛」以上の感覚はピンときませんでした。地球の事となるとなおさらです。それが調和だの平和だの自他同一だのと言い出したのです。

わたしは実は、漠然とした神というものは信じていました。子供の頃から、誰に教えられたわけでもないのに、なぜか神は一つだと思っていました。
イエスや釈迦(この二つしか知らなかったのですが)は、一つの神の分身したものだと思っていました。両親も特定の宗教的なこだわりを持っていない人ですので、教会でも神社仏閣でも手を合わせました。
わたしは特に支持する宗教もなかったし、ニューエイジも知らなかったので、「宗教と神への信仰とは別だ」という自分流の信仰?感覚でこれまでやってきました。しかし「神仏関係の探求は、今はとりあえずいいや」と、深入りは避けてきました。エゴの用事の方が忙しかったのです。

ワープロ瞑想?を始めてから、わたしは自分自身が自分の家庭教師になって少しずつ変わって行きました。

 

[4:Title/わたしのこと(2)]

内なる声(神我・宇宙・良心・精霊・ハイアーセルフ)は、最初のうちはたまに顔を出す程度でしたが、慣れて来るに従い、次第に自分の中で大きくなって来ました。内なる声の言うことは、悔しいぐらいにいちいち正論でした。
それはこれまでのエゴの感覚とはぶつかります。ですから「楽しい」ことばかりではなくなります。信頼しているのと同時に、口うるさい厄介な対象にもなってきました。「もうやめた!」と思ったことは、一度や二度ではありませんでした。十度や二十度でもありません…。

当時のわたしは(今でも時々はまりますが)エゴと神我との狭間で混乱していた時期でもありました。学びを深めて行きますと、孤独感がやって来ます。
これまで当たり前にやってきたことが当たり前ではなくなり(当たり前には出来なくなり)、一般の人の感覚からも遊離してくるように感じます。これまでの「常識」を保てなくなり、回りと合わなくなってしまうのです。物理的にも、また大勢の人の中にいても孤独になっていきます。
その代償として、自分は偉くなったんだと孤高を気取りますと、これまた神我に叱られます。「何でこんなことをやっているのだろう。わたしは以前のままでいいのだ」と思っても、一度知ってしまった後には帰り道はなくなりました。

一つの経験を書きます。わたしはあるとき好意を持つ人が現れました。相手の反応も悪くなく、下世話な表現で言いますと「いける」という感じでした。エゴとしましては「どう攻略してやろう」という気持ちが起こります。
神我は例によって「とにかく自分を見よ」と問いかけて来ます。そして見ますと、そこにあるエゴが次々と浮き彫りにされて来ました。その人と関係を持ちたいと思うことは、どう考えても畏敬の念に根差したものではなく、自分の欲望が中心であること。自分のいらいらや混乱を解消するためにその人を利用したいだけであるということ、後々の責任についてはあまり真面目に考えていないことなどです。またその人は、ある境遇を背負っている部分がありまして、それに同情しているところもありました。わたしが救ってあげようという気持ちもあります。これは相手を弱い存在と判断すると同時に、それにつけ込む思い、また自分より下の者を見つけて安心する思いもありました。もちろん純粋に好意を持つ部分もありました。

そこで内なる声が言ったことはこうでした。
「思いのエネルギーを生かす道は、その人の幸せを祈ること。あなたのところに来ることが幸せなら、それが果たされ、そうでなければ他の幸せな道が与えられる。その人が幸せになるのだから、それが最善の道である。エネルギーをその人の幸せのために向ける。会ったのも縁があってのことだから、学びとして頂いた思いのエネルギーをその人のために使う。見返りの欲望なく、私心なく純粋にその人の幸せを祈る。それでいい。あとは神にまかせる。最善の道が与えられるだろう。」

愛しているのなら、それが本物ならば、(自分の都合にあわせて)どうなるかではなく、ただ相手が幸せの結果を得られることだけを祈り、あとは宇宙を信頼するようにということです。ご立派すぎる回答で、ぐうの音も出ません。そのときは「やめた、やめた、もーやめた!」とも思いました。こういう分野でのエゴは相当に強力です。「そんなことは消極的な言い訳だ。逃げだ。ごまかしだ」と毒づいたりもしました。宇宙は決して選択を強制しません。しばらく冷静に考えた後、やはり声に従うことにしました。
結局その人とは縁は続きませんでした。しかし自然な流れの中でこうなりましたので宇宙を信頼します。

正しい選択とか偉い選択というものはありません。エゴを追求することによって学べることもあります。上下はないのです。しかし、このときのわたしの場合には、誰からも見えず証明もできない「思い」という面において、自分の納得する行動ができました。正直言って泣けましたし苦しみましたが、本当の安らぎも得られました。

そこにある「思い」に自信がある場合には、得られた結果を問わず安らぎを得られます。逆に「思い」に自信がない場合には、どんなにエゴを満足させる結果を得ても、安らぎは得られないでしょう。この大きな学びを与えてくれたことを感謝しています。その人は恩人でした。

内なる声を聞くことは、本当に誰にでも出来ることです。目でものを見たり、鼻で匂いをかいだり、耳で音を聞いたりするのと同じような、人間の普通の機能なのです。特別な超能力も霊能力も修行も要りません。
内なる声は、悩んでいる時には、それを乗り越えるヒントや優しい励ましをくれます。しかしこれは便利なだけではなく、時には厳しい学びの挑戦も試されます。混乱したり、苦しんだり、わんわん泣いたりすることもあるでしょう。それを覚悟した上で聞くかどうかは、選択になります。宇宙には「良かれ」の意図しかありません。

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