1996

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[3:Title/奉仕]

奉仕者と言いますと、たとえば難民救済や、難病の治療看護や地球環境問題の改善などに一生を捧げていらっしゃる方、政治・経済・教育、また宗教的な活動であっても全くの見返りを求めずに世界の果てまででも飛び出して、ただ調和だけを願って命がけで行動されている方などが思い浮かびます。確かに彼らは偉大な奉仕者であります。しかしそれだけではありません。
普通の社会の中で普通の仕事をされている方も全く対等の奉仕者です。ものを造ったり販売したりサービスしたり、家庭の中で家事育児に専念するのも奉仕です。厳密に言いますと、世界でネガティブな側面を担当されている方も奉仕者です。
アフリカに難民救済に行く人がいるなら、彼をアフリカまで運ぶ人が必要になります。彼が毎日食べるものを製造する人、着る服を造る人、幼稚園の先生から始まって彼に教育を施した人、あらゆる関った人、彼を苦痛や絶望のどん底に突き落とした敵役の人も含まれます。もちろん彼を生み育てた両親もそうでしょう。オールスターキャストが、それぞれのポジションを果たして奉仕が成立しています。

わたしは、こういうことを始めましてから「では自分には一体何が出来るのだろう」とジタバタじた時期がありました。「どこに行って、何をすればいいのか?」

宇宙が教えてくれたことは、奉仕するところは「今ここ」にあるということでした。「どこか」にはありません。「こんなに平凡でありきたりに見える日常のどこに奉仕をするんだ」と思いましたが、それは奉仕というものを理屈と形で捉えていたからでした。
奉仕を大袈裟なところや大上段に構えたところに置くのは、エゴのなせる技です。実際、世界各地で働いてらっしゃる方も、自分の仕事を大袈裟なこととは思ってはいないでしょう。日常の普通の仕事です。
この明確さを失うとエゴにかき回されます。頭で創り上げる奉仕像はエゴと直結し、「この奉仕(正義)の行使のためには多少の犠牲もやむを得ない」と、前に書いたパターンにはまる可能性もあります。

もしアフリカに行くことになるのなら、そのときにはそうなっているでしょう。悩むより先に飛行機に乗っています。「無理をして奉仕することは出来ない」というのはポイントです。少しでも無理があると見返りを求めたくなります。「したいからする」のが奉仕の基本です。
わたしは何をどうしたらいいのかは宇宙にまかせることにしました。この1秒間に世界中で何人もの赤ん坊が誕生し何人もの人間が死んで行きます。わたしには何もわかりません。それだけを知っています。

「今ここ」を調和させることが出来ずに「どこか」を調和させることは出来ません。どんなところであっても、そこにたどり着いた途端に、そこは「今ここ」になるからです。
毎日のゴミの分別が出来ずに、アマゾンの森林調査に行っても、自分の子供がグレているのに、外で教育問題を論議しても、夫と喧嘩しようが家庭を冷えきらせようが構わずに、街頭で「人類の調和」を訴える布教活動をしても駄目でしょう。
自分が不幸せなのに、奉仕活動だからと他人の幸せを祈っても駄目です。祈った相手が本当に幸せになってしまったときに嫉妬するかもしれません。何かをごまかすために奉仕を利用するのでは問題があります。何をごまかしたいのでしょうか。

奉仕というのは、行動の形や結果にあるのではなくて、態度や想念にあります。事の大きい小さいではなく、「思い」という他人からは見えないという理由で軽視されがちなものが、常に重要です。それは自分の「本質」からは丸見えであります。自分には嘘はつけないのです。
奉仕は、毎日の生活の中で無造作にゴミを捨てるのをやめたり、食事に行ったら、それを作ってくれた人や関わったもの全てに感謝したり、一日の間に出会う人と微笑みや優しい言葉を交わしたりと、そういう身近なことから始められます。
わたしの場合はさらに自分の体に対する奉仕も必要でしょう。肉体に無理難題を押しつけたり、エゴにまかせて暴飲暴食したり、不平不満を言うのはやめて、もっと体を大切にしたいと思います。
またこれを出来ずにどこかに行っても、不調和に貢献するだけになるのはわかっていることです。

「ここ」にはやることがたくさんあります。課題は常に目の前にあります。わたしが使える時間は「今」だけです。自分に与えられているポジションは今ここにあります。わたしはそれに明確であることから始めたいと思います。

 

[4:Title/許しと投影]

ラマナ・マハリシは、「世界」が自分から「俺は世界だ」と主張することがあるのかどうかと問います。

マハリシ:
「あなたが深い眠りにあるときや気絶しているときに世界は存在しているだろうか」

弟子:
「存在しています。他の人は世界を見ているでしょう。見たと証言するはずです」

マハリシ:
「あなたがその証言を聞けるのは、あなたが起きているときだけである」

誰が世界を認識しているのかということでしょう。

街の中を歩いていますと、いろいろな人を見つけます。そして頭はすぐに分析判断を始めます。
あの人はこういう人間だ、こういう性格だ、あそこでこうしたのはこういう理由からだろうなどです。しかしよく考えますと、わたしはその人のことを何も知りません。どこで生まれてどういう人生経験をつんでという、相手に関するデータをほとんど持っていないのです。それにも関らず、相手を知った気になって分析しています。

わたしは何を材料や基準に相手の分析判断をしているのかというと、実は自分のデータだけです。
他人についてわかるのは状況証拠だけで、それを形にするのに必要なものはやはり自分のデータです。自分だけがこれまでの人生の中で培ってきた、照らし合わせたもの。
他のものは利用出来ません。あるいは他人のデータというものは存在しないという言い方も出来るかもしれません。
つまりそこに自分を見ているに過ぎないと言うことです。

たとえばエゴは「わたしはあそこであのようなことはしない、ゆえにわたしは彼に対して怒る(非難する)権利がある」と言います。
ところが本当は、わたしに出来ることは、他人という鏡を利用して自分自身を説明することだけなのです。
「あそこで彼がこうしたのはこういう理由からだろう」という分析の意味するところは、「そういう場面では、わたしはこうする」になります。彼のことではなくてわたしのことです。

わたしは「世界」の中で、過去の自らの経験とその反応パターンの記憶を元にして、他人の中に自分がその立場になったときにすることを見ています。わたしが決してしないことならば、どこにも見えないはずです。「誰が世界を認識しているのか」からは逃れられません。

無色透明中立なものに自由な色付けをする権利を持っているのは、わたしだけです。悩みや苦しみは「外側から与えられる」のではなく、「自分で選択している」ということを知ることは大切だと思います。

熟睡や気絶している最中に、がっかりしたり笑ったりすることは出来ませんが、その間にも「わたし」は存在しています。そのわたしは目を覚ましてから改めて、がっかりしたり笑ったりします。

怒りとはすなわち怖れです。相手に対する怖れというよりも自分に対する怖れです。自分が誰だかわからないことを怖れます。「気を抜いた途端に、お尻から悪魔の尻尾が生えてきたらどうしよう」と怖れるわけです。そこで人は怒りや非難を外側という幻想に発散することによって、その場の怖れを何とかごまかそうとします。エゴが内側を見ないようにさせるための戦略の一つです。しかしそうすると柳の木の幽霊の格が上がり、次の機会にはもっと怒るという悪循環に陥ります。

ここから抜け出す方法の一つは、相手を許す道も大切ですが、それよりも先に自分自身を無条件に許す道が欠かせません。
そして自分を許したわたしが世界を認識すると、「世界」には許しが投影されます。

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