1996

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[3:Title/普通になる]

人にはそれぞれに課題があります。他人にとっては「何でそんなことが」と思えるようなことを課題にしている場合もあります。しかし課題に上等とか下等というものはありません。その人にとっての課題があるだけです。すべてが神聖な課題です。
わたしにもいくつかの課題があります。その一つは「普通になる」ということです。

わたしは外部との精神世界的な関わりはここだけです。他に宗教的精神世界的組織やグループとの関わり、あるいはいわゆる三次元的な師や指導者との関わりを一切持っておりません。学びは肉体的には一人でやってきました。
その過程で、一時は真理知識をため込んだことがありました。その方法は最初の内は確かに薬になりましたが、ある線から先は毒になりました。
知識の副作用の一つが、「いい人、高徳な人、知ってる人」という霊的自負心です。
霊的自負心の根元となりますのは「価値判断」です。あれが良いとか、これが悪いというやつです。蜃気楼である「0」を基準とした価値判断です。

わたしは「いい人」をやってしまう傾向があります。それのどこがいけないんだと思われるかもしれませんが、いい人自体は構わないのです。問題は「いい人」に失敗したときです。
エゴが創った精神世界的、求道信仰者的、神の使途的「いい人像」というものがあります。それに自分を当てはめようとします。エゴは、「真理を求めるものは、あれはやって良い、これはやってはいけない、こうあるべきだ」と際限なく価値判断します。エゴは「普通の人」が我慢なりません。ハードルはどんどん高くなっていきますが、わたしは「悪いこと」は怖いので、大抵「良いことだけ」を選択していきます。
実際に回りの人は、わたしのことを「いい人」だと言ってくれます。しかし真理知識をため込めば、たいてい誰でも「いい人」になれます。そしてここで行き止まります。高くなりすぎたエゴのハードルを越えられなくなる時がくるのです。

人間というのは定期的にエラーすることが「仕様」になっています。またそれが人間であることの醍醐味でもあります。たぶん他の人には気がつかない程度のエラーかもしれません。しかしエゴの方程式から外れたそれは、わたしに大きな影響を与えます。怖れや怒りや自己批判やさまざまな否定的なエネルギーを生み出します。自他に対してです。
わたしの課題は「悪いこと」に対する怖れを克服することでもあります。それは悪いことをするようになると言うことではなく、「悪いこと」の価値判断をやめることです。わたし自身に対する価値判断は、わたしだけの問題ではなく、同時に他の「悪いこと」をしている人に対する裁きも意味します。

今日、わたしは他人との会話の中で、エゴが推奨するところの「高徳な人」から外れる言葉と表現を使いました。すると怖れや悔やみや混乱が起こりました。それは全く問題のない普通の言葉と表現です。誰も問題とは思いません。しかしエゴの裁判官は「悪いことをした」と裁きを下したのです。時には人を励ます言葉にも、「高徳な人としては、励まし方が悪い」と裁きます。
エゴの思考をそのまま利用して「純粋」と言う表現を使うなら、同じ言葉でも、知らないで使っている方が「純粋である」と言えるでしょう。つまり下手に知識を持っているがゆえに、無色透明無害中立のものに「悪い」というレッテルを張って、否定的なエネルギーの創造をしてしまうのです。これが壁となります。「良い人」の壁です。ありのままを愛することを否定し波動を抑制する壁です。

この課題を解決するための答えは書けません。机の上や頭で解決できることではないのです。実践の中で体験し、感じる学びしかありません。「感じること」はキーワードです。また体験した後もここには書けないでしょう。言葉は壊れていて、論理的思考はトリックであるからです。
わたしは以前に宇宙から「真理を得た者は、ますます高徳になるのではなく、ますます普通になる」という理屈を教えてもらいました。しかし理屈だけでは絵に描いた餅です。今はそれを体験の中で感じている途中です。感じることによってそれは完成されます。
わたしは徐々に普通になりつつあります。

 

[4:Title/シフトアップ]

地球という惑星には、さまざまな存在理由や側面がありますが、その一つとして悟りをゴールとしたゲームセンターという見方ができます。
ゲームとは言っても神聖なゲームです。そして簡単にはあがれません。輪廻転生という言い方をするならば、ゴールまでに何百何千の生まれ変わりを要する場合もあるでしょう。もちろんそれを承知した上で、プレーヤー(神の一部である霊)はここにやってくるわけです。
ここでのゲームを面白くするためには、それなりの難易度が設定されます。そのためにいくつかのイベントやトリックを「神」が用意します。この地球という惑星での大きな特徴は「時間」という、直線的に流れる、過去と未来がある概念です。そこで霊は、まず魂というスーツを着て、次に肉体という自動車に乗り込み、この三次元世界をドライブします。その中で生まれ変わりを続けているように錯覚し、成長という体験(これも錯覚ですが)をします。

宇宙には時間はないので、もちろん時間制限はありません。自由に好きなだけ遊ぶことが出来ます。悟りはゴールですが、目的はそこに至るまでを体験をすることです。
現代という時間枠は、地球のシナリオが変わり、新装開店して新しいゲーム機が導入される時代という設定になっています。
前のゲームでもっと遊びたい人の場は、ちゃんと他の場所に用意されますが、新しいゲームを始める人が偉いわけでも優れているわけでもなく、これは単なる選択に過ぎません。

さて、次の時代のことは次の時代になってから考えるとして、この時代の悟りのゲームを終了するについてのことを書きます。
悟りを得るのはなぜそんなに大変なのでしょう。これまでの長い歴史の中で古今東西のあらゆる人々が、それに挑戦してこられましたが、一部を除いたほとんどが「悟り」をこの時代まで持ち越されてきました。地球は絶妙な難易度の、よくできたゲームセンターです。
ゲームを難しくするために神が用意された最大のトリックは、何度も書いてますが「論理的思考」です。人間はついこれに頼ってしまいます。そして宇宙や神を知識や頭で捉えようとしては失敗し、転生を重ねてきました。

結論から申しますと、この世に存在しますあらゆる真理知識の書物を熟読し、あるいは丸暗記できたとしても、またはそれらすべてをスーパーコンピューターで解析し、一冊の「真理の本」を作り上げたとしても、悟りには到達しません。「色即是空」とは何であるかを頭で考えることは、「色即是空」の意味からすると矛盾してしまいますし、その答えがでたところで、やはり悟りには到達しないでしょう。

そうは言っても論理的思考は要らないものではなく、三次元世界を生きるには欠かせないものです。先の車に例えますと、ハンドルの部分にあたります。しかし「ハンドルが車を運転している」わけではないのです。人間はそこを誤解し頭を使いすぎ、それに偏ってしまいます。偏りがまずいのです。
論理的思考は、実際には「一秒先のことも知らない」というのが実状です。あれこれ予想はしますが、本質的には当てずっぽうです。明日の家のローンの心配や計算はできますが、三時間後の大地震のことはわかりません。しかしエゴと連携すると宇宙がなぜ出来たのかも理解できるかのようなことを言い出します。

論理的思考が悟りに使えないわけではありません。それどころか一般的には最初の段階で必要不可欠なものです。車の別の部分に例えますと、ローギア(1速)にあたります。発進加速には有効です。しかし悟りは「高速道路」に例えられます。つまりそのままではどんなにエンジンを吹かしても高速道路は走れないのです。そしてローギアのままガス欠(死)が訪れます。

シフトアップ(ギアチェンジ)が必要です。

2速以降のギアにあたるものは「感情」です。これが一つの鍵です。1.5速はありませんから、論理的思考の切り捨ては必然となります。人間をやっていますとこれがなかなか難しいように思われます。
イエスは「幼な子のような者が天国に入れる」と言ったそうですが、文字どおりの意味です。本当に幼子になることです。この社会の中でそれをすることがポイントです。「そんなことは難しい。出来るわけがない」とやる前に言うのは、わたしたちをここまで先送りしてくれた論理的思考です。

言葉にするのは無理を承知で、あえてやり方を提案しますと、たとえば花を見るというのはどうでしょう。野の花でも何でも結構ですが、写真の花ではなくて、生きている花です。見てどうなるかではなく、ただ見ます。ある朝花が咲いているのを見つけたときに、「ああ、きれいだ」という感情が生まれるかもしれません。論理的思考は「当たり前だ」と言いますが、言ってる割にはやっていません。予想と体験を混同しています。
花が咲いていて、きれいだ。この単純で素直な体験。嬉しいような懐かしいような感情。幼な子であること。

その中に、神や悟り(気づき)があります。

感じている瞬間の中に見つかります。また、地球環境を癒したり平和を意図するときにも花を見ることは有効です。論理的思考は、「花を見たら何がどうなって地球が癒されるのだろう」とか「そんな暇があったら、砂漠に行ってコップ一杯の水でも蒔いた方が増しだ」と言うかもしれません。しかしわたしは花を見る方をお勧めします。「今」の中で見ることです。
「無意味」という非常に意味のある行為に対して、論理的思考は悲鳴を上げるかもしれませんが、気にせずに「感じて」みましょう。
もし「真理知識の追求や難行苦行に忙しくて、花など悠長に見ている暇はない」と言われますと、悟りからは遠ざかることになります。

現代社会の中には、感じることを恐れさせるための様々な仕組みや風潮や意図が存在しています。社会は感じることよりも受験勉強的なアプローチを推奨します。そして悟りにもそれを応用してしまうと知識の収集に明け暮れて本質から外れていきます。
特に男性は感じることに、むず痒さや居心地の悪さ等の抵抗を経験するかもしれません。そのように教育され慣らされてきた面があるのでやむを得ないところもあります。開くためには女性の協力が必要になってくるでしょう。
多くの人が怖れの中でハートを閉ざしています。この課題は最後の峠でもあります。乗り越えるのは厳しいかもしれません。かなりの勇気も必要になりますが、やるだけの価値はあります。頭ではなくハートで行動したいと思います。

それから他人や自分の外側に見えるものの分析に時間をかけないことです。ただ見るのはよいのですが、分析は罠にはまります。「外側」はすでにトリックです。論理的思考は他人を分析すれば自分がわかるかのように言いますが、実際には逆です。
無限の情報量に振り回され、混乱の中に溺れるだけとなります。それに他人を調べることの裏側に隠されている本音は、怖れを基本とした差別と分離意識です。あれが(自分よりも)上、下、良い悪いと分類します。自己満足は満たされますが、同時に怖れもますます増大します。
他人に対する判断の分だけ、自分に対する判断のノルマが課せられ、やがて判断の重石と怖れで身動きがとれなくなってしまいます。どんなにため込んだ情報も、死とともにリセットされます。これがこれまでわたしたちが何度もやってきたパターンでもあります。
調べるものは、常に内側にあります。「わたしとは誰か」だけで充分です。
もう一つのポイントとしては、テレビはなるべく見ないようにした方がいいでしょう。

もちろんここに書いてあることは「正しいこと」ではありません。謙虚を装ってそう言うのではなく正真正銘そうだからです。この内容が、お読みになった方の「真実」の中で、肯定的な結果を創造する道具として使えそうでしたら使ってみて下さい。そうでなければ無視することが「正しい」選択です。選択に上下はありません。

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