1996

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[11.09/β3b]

「嫉妬心」と呼ばれるエネルギーは、それが嫉妬心であるという名前をつけているがゆえに「問題」になります。
バシャールは愛の反対語は憎しみではなく罪悪感であると述べていますが、たとえば、嫉妬に狂った挙げ句の刃傷沙汰というのも、嫉妬そのもののエネルギーよりもそこから生まれた罪悪感に大きな原因があるように思われます。「嫉妬をしているわたしは罪深い」という信念が、その通り(罪深い)の現実化を引き起こします。
他の「否定的」と呼ばれる想念や行動も、それが「否定的」なものであり「自分がそうなっている」と思い込むことが、やはり罪悪感に結びつき、それが愛と反対の現象につながります。(大きな視野ではそうなることも愛ですが)
あるダイナミックなエネルギーの流れを、名前で分けて価値判断するのではなく、罪悪感を伴わないで体験するというやり方もあるはずです。

たとえば、エゴが「醜い」と規定する想念が起こったり、エゴが「間違ってしまった、失敗した」「悪い」と規定するような出来事を起こしたり遭遇した時に、「へーっ」「ふ〜ん」「おもしろい、おもしろい」そして「いいなあ」と感じるようになりますと、当然罪悪感は生まれません。
「油断してたら、やられちゃった」という犠牲者的な態度ではなくて、何であれこちらが感じる主導権を握ります。「よーし、わたしが(その神を)体験してやろう!」という態度です。そうすると、「否定的」なものを味わい尽くしながら、それを「肯定的」なものに変換することが出来ます。

わたしは今では「正す」という努力はしていません。正すものが無いからです。わたしが偉いから、あるいは努力したから無いのではなく、そもそも最初から無かったのです。これまでは自らが生み出した幻想と勝負をしていたということです。「否定的」と思い込んでいたものは、わたしがそう名前を付けるのを止めたら消え去りました。

何度も書いていることですが、「良い」と「悪い」の中間地点「0」というのは見つかりませんので、それらは幻想です。基準がないので、どこかに「良い」を求めても永遠に「これでよし」は得られません。エゴのお勧めする商品は最後には罪悪感の負債を抱えるようなシステムになっていて、詐欺商売のようなものです。これに捕まっていては、いつまでたっても自分を愛することが難しくなります。
「すべてよい(良いでも悪いでもなくて「よい」)」とわたしが決めれば、それはそうなります。それはわたし次第であり、他に基準は存在しません。それがわかった時、わたしはもう格闘葛藤のゲームをしなくてよくなったので、肩の力がすーっと抜けて楽になれました。

苦悩や喪失、怖れや悲しみなどを体験することが人間であることの特権であるということを受け入れて、人間は「善悪」をやるために存在しているのではなく、ただ「あらゆる瞬間にいのちのあらゆる側面をすべて無条件に体験するために存在している」と理解することが覚醒の道であると同時に、すでに覚醒していることを知る道だと思います。

悲しいことはイコール苦しいことだと決めなくてもいいし、思いっきり泣きながら至福の状態にある道もあるかもしれない。
「怒った、むかむかする」「ということはきっと貶められたのだろう、このままでは自分は被害者だ」「よーし、誰かに世界に報復を表現するのだ」という例の条件反射を必ずしもしなくてもいいし、怒髪天に怒りながら、そこに美を見つけたり、恐怖のど真ん中にユーモアを見つける道もあるかもしれない。
まるで無茶な話のように聞こえるかもしれませんが、そういう選択をすることが可能だと言うことが、最近少しずつわかってきました。
そこにあるいのち(神)の躍動を差別することなく体験して「楽しむ」ことが、この惑星をマスターすることになるのではないかと、現在一歩ずつ実践体験中です。

 

[11.10/β3c]

悲しいのを楽しむというのは、不可能なように思われますが、たとえば映画館で映画を見る時に、コメディ映画はもとより、悲しいストーリーの映画を見てわんわん泣いても、サスペンス映画でハラハラドキドキし、ホラー映画で背筋を凍らせるほど恐れても、それで苦しんでいるわけではないでしょう。言葉にするならば、それに近い感覚でしょうか。

善のパラドックスは、すべてが善になった時に、善は存在出来ないということです。善の存在は悪の存在によって維持されています。逆に言えば、これまで必死に善を創り出そうとして努力して来たことは、同時に悪をも創造していたとも言えます。
否定的な想念を消し去ろうとしてきたことが、否定的想念の存在を確固たるものにしていました。片方の極が生まれれば、もう片方の極も同時に生まれることは避けられません。

「プレアデス+」の中で、怖れについて、最初に直面する大きな関門は男女の分離、セックス性についてであり、そのあとにもっと恐ろしいものが待ち構えていると書いてあります。
たぶんそれは、「世界」の中に認識出来るもので、毛嫌いするもの、侮蔑するもの、コイツだけは許せないと怒るもの、見下し卑しみ哀れみ裁くもの、後ろめたいもの、身の毛もよだつもの、これら否定したい全てのものが自分自身であるのを認めることではないかと思います。それは確かに究極に怖いことかもしれません。
わたしは、分離していると信じていたもの、反対の極であって自分には関係ないと思っていたそれらのものを体験の中で許容し統合して一つになること。これが地球ゲームの卒業論文のテーマなのだと気づきました。

「それが何であれ、すべては神なのです」:バーソロミュー

 

 

[11.22/ゆるし]

否定的も肯定的も無くなったとき、ただ選択だけが残りました。「人間であることを生きる」という選択。ダイナミックな神のエネルギーを、価値判断を越えて、自分が望む通りに体験すること。

「世界」には何があるのかというと、全く何も存在せず、同時に全てが存在します。わたしが気絶していないときに、「そこ」に意識を向けた瞬間に「それ」は現れます。それだけです。

わたしの中にはイエスがあり、同時にアウシュビッツが存在しています。だからこそ「世界」の中にそれを認識できます。どんなに素晴らしい部分も、どんなにいやらしい部分も、それを認識できるのなら、それはわたしです。それを正直に認めます。すべての質を持っています。そこから逃げたり隠れたり、知らないふりをしていると、幻想の中で怖れが肥え太り罪悪感がやってきます。

わたしは、こういう神とか悟りとかを扱うサイトをやっていますので、普段からも「正しい想念と、汚れなく純粋で微笑みを絶やさない生活」を常にやっています・・・、なーんて言いたいところですが、一般的に人が「よろしくない」と想像するところのあらゆる質も全て持っています(^_^)v。
ただそれに「否定的」とか「ふらちな」という名前を付けて罪悪感を持つのだけはしなくなってきたというところです。まあ実際にそうなると、毒は毒としての力を持たなくなり、自然に微笑みは増えてきますけどねー。
大切なことは全く自由な選択権を持っているということです。いかなる選択に対しても罰を与えるような「どこかの誰か(神)」は存在しません。賞賛だけが与えられます。自分から自分に対して。

自分の中にはありとあらゆるもの、以前には「肯定的」とか「否定的」と名前をつけていた全てのものが「ある」と認めてしまいます。それを許容し、どちらかの極であるふりをしたり、何かになろうとする努力をやめると、「世界」の中に認識できるもの全てに、非難や怒りの気持ちは起こらなくなります。石を投げつける相手はいなくなります。

「わたし」とは、高くなるものでもなく低くなるものでもなく、その全体の動きを観察し体験しているものである。それが最新の気づきでした。
ここには、人を助けたり愛したり感動したり、または人を傷つけたり恨んだり憎んだりする、それそのものではなくて、それを体験している純粋な誰かがいます。その誰かが「わたし」です。

全ての人が「普通」であって、偉大なる神です。これまでも、そしてこれからも何も変わりません。ただ、「肯定的」や「否定的」のゲームを選択している神があるだけです。

イエスが地球にもたらした「ゆるし」というもの。それは善が悪を許すという意味ではなくて、全てを一つの中に許容するということだと気がつきました。当然、悪が善を許すという方向もありです。

癒やしとは、どこかに行って何かをして何かになることによってもたらされるのではなく、誰かや何かを変えようとすることによってなされるものでもなく、

「過去も現在も未来も、すべてよしなんだ。神の流れがあるだけなんだ」

と心から気づき、ゆるすことによってもたらされるでしょう。
今はそれを体現する人が一人でも多く求められています。自分を癒やしてそこに「ただある」だけで、神の愛は自然に流れていきます。唯一存在している「今」この瞬間に。

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