1999

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Invitation to Freedom

1,旅の始まり

 

1-1.世界

霊的精神世界的な旅が始まるとき、そのきっかけの多くは、自分の悩みや苦しみを何とか癒して、自由で幸福な状態になりたいという願いからだと思われます。
そこにはたとえば重い病気や事故、不安、迷い、恨み、空虚感、失恋、裏切り、挫折、人や生き物の死、トラウマ、抑えきれない怒りと自己憐憫など、さまざまな事情があるでしょう。
人は正直になると、肉体としての「自分」が、一寸先の保証もない無常な世界に存在していることを知っています。 たとえ金銀財宝の山にその身を埋めても、鋼鉄製のシェルターに隠れても、現世的な地位や肩書きを収集しても、気休め以上の安心材料にはなりません。

天変地異や社会情勢の激変のようなものだけではなく、突発的な病気や事故でさえもその可能性を否定できないという意味では、たとえば胸の中にある心臓が(論理的に説明納得できるような理由の有無に関わらず)果たして数秒後にも無事に同じ鼓動を維持しているかどうかも含めて、いつ何が起こるかを全く予測できないからです。

自信を持って言い切れる持ち駒を何一つ得られないのは、そもそも「自分がなぜ存在しているのか」(さらには「この問いを発しているのは誰なのか」)さえもわからないとすれば当然であるといえます。
そのような状態で、まるで雲の形のように気まぐれに変移する「世界」の動きに対して、牽制したり舵を取ろうとしてもうまく行かないのは、これまで経験してきた通りです。
「あまりにも知らないことばかりである」という土台の上で「自分」をやっているというのは、まるで目隠しで車の運転をしているにも等しいのですが、それでもこうやって生があるのは、「今」が奇跡(神や宇宙と呼べるようなもの)に支えられているのだということがわかります。

普段の生活の中では、そのことに真剣に向き合っていたら大変に感じるために、とりあえず上蓋だけをしておいて、例によってある日突然「びっくり箱」が開いて大慌てせざるを得なくなるまでは、なるべく触れないように考えないようにと灰色でウヤムヤな状態を温存させてしまいます。
三次元世界において、目の前で花火のように繰り広げられる物質的なことだけに気を散らしていけば、しばらくは酔いと勢いだけで転がりながら、気づかないふりをギリギリまで続けることも可能です。 しかし問題の先送りには成功しても潜在的な恐怖感が抜け去るわけではないので、根本的な平和や安らぎが訪れることはありません。その代償として「蜘蛛の糸」を登るカンダタのような心境に追い込まれてしまいます。

自分が生き残るためには後ろから上がってくる人を常に蹴落とさなければならないという信念を、証明したい人同士がお互いを引きつけ合ってドラマを共有します。 孤独と猜疑心による疲労の中で、食うか食われるか、誰が当面の生け贄になるのかを基本とした自他の争いに身を投じていくことになるでしょう。

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