1999

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Invitation to Freedom

2、癒しの方向

 

期待

「いや、足りないというのは錯覚ではない。まぎれもない現実だ。わたしはそれを何度も体験している。だからこそこうやって他人に出し抜かれないように日々格闘しているのだ」という場合があるかもしれません。

プレアデスの言葉に、「考え(信念)がまず第一にあり、体験は常に二次的なものである」というのがあります。
自分が体験したドラマが、どういう順番で構成されているのかを綿密に検討すると、体験が先にあったのではなく、「自分がそう思った」というのが常に一番目に存在していたことに気づきます。

たとえば「他人はみんなで俺のことを馬鹿にする」というドラマが生まれている場合には、自分が自分を馬鹿にしているというのがまず一番目に存在していて、それが世界に投影されていくのが正確な順番になります。 どこからともなく馬鹿にする人が降って湧いてくるのではなく、「自分など馬鹿にされて当然だ」という考えの方が先にあるわけです。

体験をしてから、それに基づいて考えを抱くという順番はありません。 このことを脇に置いて、二次的なものである外側の敵にいくら不満をぶつけて攻撃したり犠牲者のフリをしても、自分で自分を馬鹿にするのをやめない限りは、同じドラマが永遠に繰り返されることになります。

最愛のパートナーを望んでも現れないときに、世の男(女)は見る目がないと嘆く前に、「こんな自分には愛し愛される価値がない。誰も近寄るな」という信念がないかどうかを調べることも可能です。
エゴに頼めば「出来ない理由、駄目な理由」は論文が書けるほどたくさん用意してくれます。愛されるのに必要だとする条件を無限に要求する(一つには変化を怖れて望まないという面も隠れています)ので、容姿などから始まって、足の裏のほくろの位置にまで文句を付けてくるでしょう。
しかしそれを出来る理由に変えていく、つまり内的作業によってプログラムを書き換えることも可能です。価値判断の幻想を越えれば、ウィークポイントとされていたものも、チャームポイントに置き換えることを自分に許せます。

特に否定的な現実に関しては認めたくなくても、起こることは自分がそれを期待しているのだというのが中心にあります。 人のせいにする方が楽ではありますが、自分の責任を自分でとる勇気が本当の福音になります。

 

迷路

現代社会において、あらゆるメディア等から発信される情報の洪水に囲まれていると、まるで世界に起こっていることの全てを知っているかのような錯覚に陥ってしまい、かえって本当の情報を見失ってしまう傾向があります。
そして自分が実際に体験したことと、他から聞いただけのことの区別がつかなく付かなくなって混乱していきます。

ある事件が起きて、それに関するニュースなどを繰り返し聞いていると、それについて何でも分かってしまったような気になりますが、実際に知っているのは、誰かが取材した新聞記事の内容や放送作家の原稿、コメンテーターの意見などだけであって、当事者には直接会ったことも関わったこともない場合がほとんどです。

本人のことは本人にしかわかりません。その人がそこに至るまでには、全くのオリジナルな人生がもたらす特別な歴史を経過して、一つの出来事が生み出されてきたのだと言えます。 たとえ身近にいた親や双子の兄弟だとしても、その人と全く同じ人生を歩んでいない以上はやはり(自分のフィルターを通して)想像することしか出来ないでしょう。
仮に自分が何か事件を起こしたとして、それについて他人が全てを理解したり評論できるかどうかを考えてみればわかることです。

他人による一面的な感想をつなぎ合わせたにものにしか過ぎない情報に、さらに自分の思いこみを加えたものが「事実」として一人歩きしています。
「事実」は、その時の精神状態や体調次第で、一方的にネガティブに価値判断されたドラマにも簡単に変容します。 そういう性質のものを相手にして、怒ったり悩んだり、全く別物である自分の人生にも同じことが起こるのではないかと怖れたり、または他人と争い合うための道具にしてしまうことに本当に意味があるのかどうかを問うことが出来ます。

悲惨を断罪するという正義の口実から始まったものでも、思い込みVS思い込みの戦いは、別の場所でまた新たな悲惨を創造する結果になります。
怖れは信念となり、それに即した現実を創造していきます。

本当の情報とは、今ここにあるものです。手を伸ばして何かに触れれば温かいとか冷たいとかという感触が返ってきます。道ばたの花を見れば美しいと感じたり気持ちが安らいだりします。風が季節の香りを運びながら頬を撫でるのを感じることが出来ます。
遙か遠くの誰か、いつかのどこかではなくて、家族であれ友人であれ、今目の前に困っている人がいたら何か手伝えることがあるかもしれません。ただ一緒にいて笑顔を返すだけでも勇気づけることが出来ます。

まずこの場所にしっかりあることで、次の人にもそこからつながって行くでしょう。 「今ここ」から外れて、いったい自分がどこにいるのか、誰がどこにいるのかもわからないまま、無味乾燥した思考だけが過去や未来に飛び散ってしまうと、恐怖と苦しみの迷路にはまりこんでしまいます。

「足りない」という現実を体験するときにも、やはり「足りないはずだ」という自分の強固な信念が一番最初にあります。信念より先に足りないという経験をすることはありません。
顕在意識上からは隠れてはいても、自分のあらゆるコミュニケーション、言動、視点などが『足りないですよねえ、そうでしょ?みなさんそう思うでしょう?そうに決まってるんだ、うん間違いない』という言葉をマントラのように唱え続けていることによって、ドラマが展開されています。

現れたものが足りなければ「やはりそうか」とそのままであり、足りなくならなければ、なるまでは納得しません。 茶碗を裏がえしにしてでも、そこについている汚れやゴミ(足りないという信念を証明するもの)を探し出し、見つかってやっと一安心するわけです。信念と整合されない情報は、「世界」の中にいくらあっても無視されます。

もちろん「全ては足りている」という信念があれば、足りていることが現実となります。裏側のゴミをわざわざ探す必要はなく、あっても見えません。 そんなことよりも今ここにある茶碗の中の温かいご飯の方に目が向きますし、炊き具合にしても味にしても良いことばかりに興味が集まって、それが自分の現実体験になります。

不要なものは見ないというのは逃避とか目を逸らすという意味ではなく、自分が主人公となって、あらゆる角度から見る自由を持つと言うことです。
ある事象に対して、特定の方向で何かを見なければならないという義務や宇宙の法律はありません。
たとえば悲しい事件とされるものがあったときに、単に「酷い、絶望、もう駄目だ終わりだ」と決めてかかってしまうことの方が逃避や言い訳であり、ネガティブな価値判断は、自らを停滞させるには最も都合のいい道具になります。

大きな病気一つをとっても確かに肉体的にも精神的にも辛い経験ではありますが、「悲惨だ、天罰だ、運が悪かった」と拗ねたり同情だけを求めて終わるパターンもあれば、極限状況であってもそれを機に自分が忘れたり置き去りにしてきた何かを思い出したり、人生の見方や感じ方が180度変わったことを喜ぶパターンもあるでしょう。
同じ病気であっても同じ経験にはなりません。信念次第です。

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