1999

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Invitation to Freedom

2、癒しの方向

 

自由への旅の第一歩目を踏み出す方向を検討するとき、最初に思いつくものは、悩みにしても苦しみにしても、それらが現れたのには何らかの原因があるはずだろうということです。だからそれを突き止めて取り除けばよいのだと考えます。
引き算するというこの発想はうまくいくように思われますが、目算は外れます。その行為もまた、波を生み出す結果になってしまうからです。

 

2-1 外部世界との葛藤

「原因は何だろう」と問うときに、まずはこれまで続けてきた因習のパターンを引き継いで、「とにかく誰か他人や社会が悪いに違いない。自分は犠牲者だ」とするステップから試していくことができます。
その場合には外部世界の中に敵や犯人になってくれそうなものを懸命に捜し出し、非難したり怒ったりしながら戦います。ある時は強がっているかと思うと次には媚びたり甘えてみたりと、様々な角度から働きかけて奮闘努力します。
これは敵を倒すか服従させるにせよ、あるいは誰かに同情してもらうか救ってもらうにせよ、外部世界の変化によって問題解決を得られるはずだと期待するやり方です。

自分は扉の前に手ぶらで立っていて、それを開ける鍵は誰かが持っている(隠している、奪っている)という構図が前提ですから、それを力で取り戻すか、かなわなければ頭を下げてでも返してもらうしかありません。

力で取り戻そうとする過程においては、一刻も早く答えが欲しい焦りと、理由もわからずに自分がこんな目にあっていることへの怒りや苦しさから生まれる悲鳴が、なりふり構わない形で世界に放たれてしまうことがあります。
たとえば正義の名目(自己中心的なもの)に、恨みや欲求不満などが境界線もわからないままに折り重なって暴走し、時には無差別に他人を巻き込みながら、自他共に傷だらけにしていきます。

ところでこのドラマでは双方に同じことが起こっているように見えますが、正確に検証すると、自分が傷つくのは全くリアルであるのに対して、他人も傷ついたはずだというのは(たとえ相手がそう証言したとしても)自分の想像によるものでしかないということがわかります。 他人にはなれないわけですから、それ以上を具体的に感じることは不可能です。つまり自分だけが確実に痛みを得たという結果が常に残ります。

しかも前にも述べたように、自分が(自らの言い訳のために)敵を望んでいるのだというのがドラマの骨格にもあるので、きりがないサイクルに突入しています。
たとえ10年間休まず勤勉に一日一人ずつの敵を倒すことができたとしても、相手に出来るのは地球60億人中わずか3650人程でしかありません。
外側に敵が存在するならば、そのほとんどはのうのうと逃げ延びられるという計算が成り立ちます。そのことに本気でエネルギーを注ぎ込みたいかどうかを問えます。

孤独と混乱に囲まれると、たとえ否定的な注目でもいいから浴びたいという気持ちから、無理して暴れたりする事もあります。本当は勝ち負けよりも、このアピール(救助信号)を通して、自分を助けてくれそうな誰かを見つけたい、見つけてもらいたいというのが目的であると言えます。 しかし自分の内側以外に鍵を求めようとする方法には望みはありません。

それを認める勇気を必要とします。 仮に助けてくれそうな誰かが世界に見つかったとしても、その人も無常な波の仕様の中にいますので、どこまでつき合ってくれるかの保証はなく、いつ消えてしまっても不思議ではないと言えます。
消えるというのは、相手が死んでしまうようなことから裏切るとか気が変わるとか、いろいろな可能性を含みます。 また自分の方にアクシデント(病気などで目や耳などが使えなくなるなど)が起きた場合にも、同じように保証が効かなくなります。 そうなるとまた裸で路上に放り出されて震えなければならないでしょう。

暴れたところで、前よりも悪化することはあっても良くはならないという気づきが生まれることによって、最終的にはこれらの方法を維持していくことには疲れ果てます。
しかしそれはよい傾向であると言えます。エゴは強情であり、欠乏の信念のために疑り深く、変化をおそれるので、次のステップに移行するのに現状に対する徹底的な疲労困憊を必要とするからです。もちろん楽々と移行できるなら、それもよい選択だと言えます。

責任転嫁や一方的な依頼心の感覚が抜け切るには、しばらく時間がかかりますが、それと平行しながら渋々と「たぶん自分の方に問題があるのだろう」と言う方向にシフトしていきます。これまでのことは、最初からそう感じていたことを押し隠すための選択であったといえます。 本当は世界や他人に対して怒っていたのではなくて、自分に対して怒っていたのだということにも気づきます。

許せなかったのは自分自身でした。 確かにそうであるし、そこまではいいのですが、だからといって自分を敵にするのでは全く方向が違ってしまいます。 エゴはどうしても敵を見つけて、引き算をしようと試みます。

 

2-2 焦点

今度は「自分」を何とかしようと考えるわけです。何とかするというのは、それぞれに(抱えてきた背景によって)程度の差はあると思いますが、基本としては「自分とは何か足りないはずだし、どこか間違っているはずだし、たぶん罪深くて汚れているはずだ」というようなことを漠然と確信していくところから始まります。

これまでの人生において与えられてきた環境や常識などを踏み台にし、さらに原罪とか罪深さを悔いることを背負わそうとする宗教的な刷り込みなどもあったりすれば、自然と「悪いはずだから」という思いこみに至っても不思議ではありません。

その上でたとえば自分の普段の行動とか想念とか性格や生き方から魂の状態に至るまでの諸々をどのようにか改善することを目指します。そうすれば、きっと幸福への突破口が見つかるだろうというプランです。 改善の名のもとに自らを裁いていきます

この方法は、以前のように他人に直接迷惑をかけることが少なくなるように見える点では気が楽であるし、それを含めてこれまでに溜め込んでしまった罪悪感と贖いという兼ね合いからもエゴには快く、自虐的な行為であっても今度こそは正しい方向を見つけたような錯覚に陥ります。

贖いの目的にあるものは、相手が神仏であれ他人であれ、許してもらうということです。「してもらう」。つまりこれもまた外的条件に寄りかかり、鍵を預けている状態です。
自分が自分を許すという部分がすっぽり抜けていて、そんなことは傲慢だという思いこみもあります。
他人はそれに同意してくれるかもしれません。彼らは(自覚してないので悪意はないのですが)怖れによって、相手を自分よりも弱い状態に封じ込めておきたいという心理に突き動かされています。
怖れの背景は、「すべてには定員があり、席は充分に用意されていない。つまり幸せになれたり救われたりする人数が足りないのだ」という信念の刷り込みによるものです。

反省とは「自分の内側を見ること」と似ているようですが別のものです。
反省は外側から与えられた価値判断を鵜呑みにして自分を裁く行為です。罪悪感は減るどころか、確信とともにますます増えていきます。

「いかに間違っているか」などの否定的な面に焦点を当てることは、それをますます拡大させるだけの結果になります。 もし他人の間違いを、誰が聞いても(もちろんその本人が聞いても)一切の反駁の余地も見つからないほどの完璧な論理をもって指摘したとしても、「そうか、なるほど俺は間違っていたのか。悪いんだな。もうやめよう」という方向に展開することはありません。
なったとしても一時的に無理矢理蓋を閉めただけです。
普通はさらにやる気をなくして自暴自棄に陥り、悪化の一途をたどります。それを甘ったれているとか、正論は正論だと言うのは簡単ですが、結果は変わりません。

もちろん自分に対しても同じ結果が生まれます。(悪いという前提で)改善しようとすればするほど改善されないことに気づきます。

文字にする以上、「愛」という単語でしか表現できませんが、これだけが癒しの鍵になります。愛を通して自分や相手の神性に焦点を合わせれば、許しが生まれ、それが拡大します。

自分の内側を見るという行為は、自分を愛することであって、間違いを探し出して並べ立てる行為ではないということです。理屈の足し算引き算で済ませようとするのは、愛を迂回して誤魔化すためにエゴが用いる方便です。  

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