1999

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Invitation to Freedom

2、癒しの方向

 

損得

いわゆる「愛する」という行為から得られるものは、同じように「わたしも愛されるだろう」という信念です。
あらゆるものに愛を見つけながら、こちらも「ほら、やっぱりね」と確信が深まって行きます。愛が普通になります。 エゴの視野には「愛すること=むざむざ与えること=つまり損をすること」程度の理解しかないと言えます。
「まあ、愛されるのならば愛してもいいけど」というのは、鏡に映っている自分に向かって「こいつが笑ったら俺も笑ってやるのだが」と期待しているのと同じです。 ただし言葉ではなくて中身の問題ですので、ちょっとだけ見返りを求めて愛すれば、「わたしもちょっとだけ見返りを求められながら愛されるだろう」になります。
「愛さなければならない」ならば、「相手も無理して愛しているだろう」です。正確に反映されます。

「愛する」という行為を、どこかで定義された善とか正義とか教義、神の法などという言葉に絡めると大仰なものに感じられたり、かえって反発が生まれることもありますが、もっと単純に損得で考えればよいのだと思われます。
愛は得します。 神を知るための精神世界的な旅も、深く進むにつれて殉教者的な方向にならざるを得ないかのようにイメージする場合がありますが誤解です。得をしないことに貴重な時間とエネルギーを費やす価値はありません。

エゴの問題点を指摘するのは、「悪」い存在を打ち倒したいのではなく、むしろ応援したいからです。エゴは「とにかく得をしたいのだ」という思いを一つの基準に持っていますが、それは全く素晴らしいことだと言えます。
損をしたいと言うのならばどうかしています。遠慮せずにどんどん得をすることが望まれます。最初から利害は一致していました。 しかし実際は上記した展開のように、頑張った挙げ句に望みとは逆の割に合わない結果を呼び起こしていて、しかもそれで得をしているのだと思い込んでいる状態なので、こうした矛盾の泥沼から抜け出したいという意図によるものです。

自己処罰における謝罪のもう一つの方向には、同じように苦痛を伴うという意味で、病気や怪我事故のような現実を創造するという選択もあります。 ただしこれはあくまで選択肢(利用法)の一つということであり、全ての事象がそれで説明されるわけではありません。
たとえば負荷を背負って地球に存在する魂は、ニューエイジ的な概念からしますと、そうあることを通じて神の愛(愛とは何か)を多くの人にシェアするために現れた存在であると言えます。また病気や事故という形で物理的に身動きがとれなくなる状況は、自分を見つめるための舞台として有効に働くことがあります。強制的に開けられた空白によって、怖れの正体とじっくり向き合うためのチャンスを開くことができます。 方向転換のタイミングがやってきたのに、執着心の堂々巡りなどエゴの抵抗によって袋小路から踏み出すのが難しくなってしまった場合に、ポンと背中を押す役割ともなります。

フランチェスコやラマナマハリシが死の淵に達するような病の中で神を見つけたのは有名な話ですが、同じような経過を選択する人は少なくありません。 「自分」とされる肉体の一部あるいは全体の存亡という事態に直面すると、あれほどまでに執着していた対象物が途端に色あせて、自分にとって本当に大切なもの必要なものに目が向きます。

全てのタイミングは完璧であるということを踏まえた上ですが、犯罪にしても事故や病気にしても、それらを無くそうとするならば、二次的に現れている原因と結果だけに取り組んでも、根本的な問題解決には至らないでしょう。

貧困が原因で犯罪が起こるとするとき、この世から貧困が消えればそれが減るだろうと考えます。あるいは銃社会が原因ならば銃を無くせばよいと考えます。確かにそれらを直接原因とする犯罪は減るかもしれません。
しかし犯罪のバリエーションそのものは方便でしかないので、(捕まって罰してもらうための)ある方法が使えなくなれば、また別の方法を見つけだすだけのことになります。方策は無限に見つかります。
病気の治療薬を見つければその病気は根絶しますし、自動車の数を減らしたり、あるいは技術革新による画期的な安全システムを構築すれば事故は防げるかもしれません。もちろんこれらは有意義なアプローチではあります。
それでもやはり内面の罪悪感を癒すことに踏み込まなければ、たとえ細胞のDNA構造のレベルまで原因を遡って足し算引き算の対策を練ったとしても、いたちごっこです。 

神や宇宙が人間を何らかの基準で価値判断して罰することは決してありません。カルマとか報いとか裁きとか、神はそんなことをすることはないし、必要もないことです。 神に対して申し訳ない存在である人間は一人もいません。
申し訳ない存在であり無力であってくれた方が都合のいい、権力欲などのエゴに翻弄されることを選択した人間ならばいますが、それも含めて神は裁くつもりは全くありません。
宇宙に存在するエネルギーは中立であり、白いキャンバスとして画家(人間)の手に委ねられます。あらゆる事象は多面的な意味を持ちます。 悲惨・絶望・無意味という解釈しか出来ない事例や結果的に今世の肉体が死に至るようなものであっても、それだけのものではなく、人間智で推し量れる以外の要素を多く含んでいます。  

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