1999

1 2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15

 

Invitation to Freedom

2、癒しの方向

 

2-6 逃避

わがままを通すために三次元世界に関わろうとするエゴの傾向は、たとえ暴走状態にまでなっていても、同時進行で「やっぱり無茶やってるよな、いくら何でもまずいかもな」などと、自分の状態を客観的に把握している部分があります。
これは仮に望み通りの結果を達成しても満足や安らぎを得られずに、腫れ物のようにピリピリイライラしてる様で説明されます。
また他人からもわかりやすいので、周囲がブレーキあるいはアクセルとして関わってくるドラマも生まれ、相互作用でさらに見通しがよくなります。 蒔いた種が自らに痛み苦しみをもたらす形で返ってきたときには、「まあそうだろう、あれだけやったのだから仕方がない」と起こったことの全体像や意味を分析できる可能性があり、それを踏まえた上での次に望む選択へとつながるでしょう。

壁をハンマーで叩くような行為は派手ではありますが、壊れたりひびが入れば、まずはその個所を修繕すればよいだろうという見当が付きます。
しかしエゴが建物の裏側でシロアリのように潜伏してしまうパターンにおいては、差し迫っての問題は起こっていないようにも見えるため対策が遅れがちになり、知らず知らずのうちに屋台骨がジワジワと浸食されて、最終的には建物ごと傾くような事態へと発展することがあります。

<ドラマケース 1> あるとき自分の親しい友人が、辛く悲しい出来事に直面したという話を耳にします。
彼はショックのあまり落胆憔悴しているとのことです。 これを聞いてまず最初に思考したものは「それは大変だ!」でした。それから「自分に何か出来ることはないだろうか、励ます方法はないかな」とも段階的に思考します。確かにそれは一つの本音だと言えます。
思うだけで終わりにせずに、実際にそこに出かけていって具体的な働きかけをすることもあるでしょう。
常識的な(いわゆる「善」を基準とした健全な)過程を歩んでいることにちょっとほっとします。 さらにその友人の悲痛な気持ちを考えると、自分の胸も詰まるような感じになってきます。彼(彼女)のような真面目で優しく罪のない人に降り懸かった災難を憎み、事の理不尽さに憤りを覚える・・。そうなるはずだとエゴのマニュアルには書いてあるので、「そうなったのだ」と機械的に信じて一件落着となります。

ところが「自分」を正確に見つめると、かけ声とは裏腹な奇妙な感覚が存在していることに気づきます。それは胸が詰まって重苦しいというよりも、むしろ高揚し解放されワクワクするような感覚です。
これは、たとえばテレビや新聞などで大きな災害や事故、争いごとなどの報道に触れたときに起こる違和感にも似ています。
事件の情報を集めているときに存在する「エネルギーの質」について改めて検証すると、そこにある期待と衝動は自他に対して表向き宣伝されているものと同じではないようです。
お通夜の席のような顔を交えながら「かわいそうだよね。大変だよね」と言いながら、もちろん実際そう思ってもいるのですが、同時に『いい気味だ。もっと大騒ぎになれば楽しい』と呟いている自分が見つかり愕然とします。

→次へ