1999

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Invitation to Freedom

2、癒しの方向

 

2-5 信念と体験

  a.道標

さまざまな記号の集積によって構成されている(たとえば過去に両親によって「名前」を与えられた)、このたった一つの肉体が自分であるという思いにロックされている状態では、人間であること全てがすなわちエゴであると言えます。
エゴというと普通は「自分さえよければ、他はどうなってもいい」というような自己中心的な心の働きと、それに伴う盲目的な活動を指すことが多く、否定的な意味合いで使われます。実際マイナス面ばかりが目に付きます。

他人よりもよいもの(たとえば食べ物、衣服、地位、環境など)が欲しいとする思いが激しくなれば、手段を選ばず自他に犠牲を強いていきます。
「よいものは足りないので奪い合わなければならない」という刷り込みと怖れがベースにあるため、何かを得たら得たで今度はそれらを奪われないように24時間体制で監視の目を光らせます。
安らぎは生まれず、たとえ表面的に平静を保つことが出来たとしても、ある時ふと怖れのキーワードに触れただけで、まるで催眠暗示にかかっているかのように突然我を失って爆裂することを止められないでしょう。
わがままの限りを尽くしているような人であっても、内面ではこれをそのまま野放しで続けていたら非常にまずいだろうことは誰に言われなくても十分承知しているわけですが、自らブレーキを制御できないことによって増幅する恐怖感はますます狂妄破滅的な方向に舵を取らせてしまいます。

このような事情から、多くの教えではエゴ=悪の根元のように説明し、あらゆる難行苦行を通してでもそれを成敗し滅却することを推奨します。
そしてもしそれを諦め、開き直ってエゴの軍門に下るならば、遅かれ早かれボロボロになって自爆していくしかないだろうという両極端、二者択一の方向が提示されます。

しかし、エゴを打ち倒そうとして、修行の末にいかにもあと一歩でそれが達成できるかのように見えるところまで行っても、実際にはエゴの中でエゴが動き回っているに過ぎないので、堂々巡りが繰り返されるだけです。
「あなたは見事にエゴを打ち倒したことを認めます」と卒業証書を手渡してくれる校長先生の正体が実はエゴです。

万象万物の本質は中立であり、エゴも同様です。ダイナマイトと同じで、使い方次第で異なるドラマを創造できます。
どのような人であれ「他人なんかはどうなってもいい」というのが本来の目的であるわけはなく、そうしなければ自分が怖い目にあう(奪われる負ける虐げられる)に違いないという疑心暗鬼のために防衛反応としてやむなくやっているというのが実状です。
そんなことをしなくてもよいものは得られ、怖がらなくても大丈夫だと知るならば、わざわざ苦労して他人を攻撃したいとは望まないし、みんなで平和に笑い合えるのならばそれに越したことがないというのは誰もが思っていることでしょう。

単によいものが欲しいと思うこと自体には問題はなく、これは人間社会の文化や芸術創造の原動力にもなります。石器や土器にしても、よいものを得たい思いから生まれたわけですから、それを完全に拒否すれば、さらに原始化した文字通り裸の生活となります。
「それでもよい、今の状況よりはその方がましだ」とする考え方もありますが、唯一の答えではなく、多くの選択肢のうちの一つです。

混乱を引き起こすのは、「よいもの」が他人との比較という条件においてのみ存在するのだという錯覚です。そのために本当のよいものを見逃してしまいます。 よいものは比較や勝ち負けとは関係なく、自立して存在できます。自分にとってよいものを判断するのは自分であるというのは当たり前のことです。

「この服のデザインはあまり好みではないし、真夏に毛糸の長袖では暑苦しいのだけど、あの人が着ているものよりも値段が高いし有名ブランドの服なので、わたしはよいものを着ているのだ。よかった」というようなドラマは、他人事として聞けば滑稽で笑ってしまう内容ですが、エゴに翻弄され急き立てられた日常の中にいると、実は自分が同じことを大真面目な顔で執り行っていることに気づきます。
「この店の料理は自分はとても美味しいと感じるのだが、他人はそう言わないので、きっと美味しくはないのだろう。もうここに来るのはやめよう」、逆では「この店の料理は自分はまずいと思うのだけど、みんなが美味しいというから、やはり美味しいのだ」と長い行列に並ぶ、このような矛盾がまかり通っても不思議に感じません。
仕事や学業では、本質や中身は無視して数字だけがご本尊として一人歩きすることもよくあります。 エゴの問題がどういう形で現れているかにメスを入れないと、今の状況が苦しいことや異常であることが分かっていても、出口の見えない堂々巡りが繰り返されます。

そこから抜け出すことよりも開き直りや諦めに陥ったり、助け合うよりも抜け駆け防止のための監視と牽制大会に向かったり、無価値感や孤独感から生まれる怒りや羨む気持ちは、他人の足を引っ張って自分の道連れにしたくなるという、いつもの展開に転がっていくわけです。

戦争という構造も、この場所から始まっていきます。本当は戦いを終わらせたいのに、気がつくとやっていることは、他人に対して「非国民!」などと脅迫しながら、戦争維持側の先鋒を勤めていたりします。

エゴを越えるとは、それと戦って滅却したり無視する方向ではなく、無知によって引き起こされた幻想見破って(癒して)、エゴと和解する方向です。
胃が痛むときに、こんな胃などいらないから捨ててしまおうとすることは無謀であるし、たとえ薬だけ飲んだり手術だけをしても、原因となっているストレスの問題をそのままにしていたら何度でも再発することになるでしょう。

エゴは悪ではなく、情報不足のために混乱しているだけの小さな赤ん坊のようなものです。 志としては「自分」を助けるために、彼なりの視野で「これこそが良かれ」思って最善を尽くしてきたわけですが、結果的には裏目にばかり出て、苦しみを創造してきました。
怖れなどの幻想のベールをはがしていき、正確で有用なプログラム(信念)に書き換えることによって、エゴが新しい役割を発揮できるように導くことが自由への道標となります。  

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