1999

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Invitation to Freedom

1,旅の始まり

 

1-3.極

宇宙の本来の姿には波という性質はなく、当然「極」も存在していません。いわゆる陰と陽とか光や影という形態も持ちません。 「ある」のものは、一番近い言葉で表現するならば「無」になります。あるいは「ゼロ」です。 宇宙は全くの自由素材、自由なエネルギー、透明なキャンバスであり、どのようにでも利用できるように「自ら」が存在しています。

エゴは無を認めず、そうではないフリをすることによってドラマを生み出しています。しかしフリはあくまでフリなので長続きはしません。 たとえば人が地面の上でジャンプして、そのまま宙に浮かぶはずだと思い込んだとしても、やはり引力によって地上に落ちてしまいます。
飛び跳ねればまずその力で疲労するし、たとえ手を鳥のようにバタつかせたり、宙で必死に足を漕いだとしても結果は変わらず、疲れが増すだけです。さらに落ちた衝撃は痛みとなっても伝わって来ます。 それでも懲りずに浮くはずだと思い込み、頑固に飛び跳ね続けているのがエゴがやっていることであり、波が生み出されて現象としての悩み苦しみの元になっています。

原因結果の法則を神の裁きであるかのようにとらえるのは、「着地で足が痛いのは固い地面のせいだ」とするのと同じです。宇宙はあくまでも無であり、人間の怖れが生み出した価値観である罪や罰とは無関係の存在であります。 もしエゴのもたらす幻想を越えて無を認めることが出来るなら、つまり無駄に飛び跳ねるのをやめれば、「問題」は起こらなくなるだろうと考えられます。

失うと言うのも積極的なエネルギーであり、宇宙が勝手に生み出しているものではなく、その原動力、作用側になったのは、「失うまい」とするエゴの思いです。執着心が波の前半部分を創造し、反作用として消えていく過程をもたらします。 同時に人間界というのは、このような浮いたり沈んだりという刺激的でダイナミックな動きを「楽しむ」ためにあるとも言えるわけです。
それぞれが望む波の振幅で、豊かになったり貧しくなったり、威張ってみたりいじけてみたり、差別したり差別されたり、憎んだり憎まれたり、開き直ったり反省したり、殺したり殺されたりという両極の体験を享受します。それらのドラマを経験することも神の表現の一つであります。

人間は地球においてエゴという道具で遊ぶことに同意して存在しています。エゴは悪者ではなくて、選択肢の一つとして重要な役割を果たしているわけです。
そこで自分はまだそれを使って遊びたいかどうかと問うことが出来ます。二極化された「世界」に未練があったり、もっと実験を続行したい場合にはこの内容は不要なものでしょう。 これは神を含めた誰に対する義理も責任もなく、どちらかが上等だとか神の御心に沿っているとかではなく、(「人間」という種を楽しむにおいて)その時点で必要なものがあるというだけです。常に自由な選択のみがあります。
遊園地のジェットコースターにしても、数分間乗っている分にはスリリングで楽しくても、何時間も乗っていれば気分が悪くなるように、やがてこのアップダウンの繰り返しには飽きて、うんざりしてくることがあるでしょう。
この道を歩む人は、ほとんどがそういう状態なのではないかと思われます。これまでのような怖れと防御のために泣く泣く続けてきた不毛な戦いの日々は卒業して自由になりたい、幻想ではなく本当に存在しているものを知りたいという思いで満たされています。
宇宙には時間という概念そのものが存在しないので、早く卒業したからと言って特に誉められるわけでも景品が出るわけでもありません。今どうしたいかということです。

 

1-4.試練

ロケットが地球の重力を乗り越えて大気圏外に脱出するにはかなりの推力が必要なように、因習化した二極構造から抜け出すにも相当のエネルギーを必要とします。

推進力を得るには様々な可能性がありますが、一つの方法としては最初に書いたような、いわゆる「否定的」とされる極の経験を(たとえ顕在意識上では理解できなくても)自ら重点的に創造するという選択があります。
いざ始めようとする段になっても、エゴにとっての都合の良い波の状態にあったり、悪い状態でも生ぬるかったりすると、変容を怖れる声に押し戻されて、重い腰がなかなか上がらなくなってしまいます。目覚まし時計が優しい音では起きられないのと同じです。

継続的に重い負荷を与えることによってショック療法的に自分と対面する機会を用意すると、次第に内なる神(イエスの表現した聖霊)が姿を現し、今のタイミングにおいて理解できる範囲内で一歩ずつ道案内をしてくれます。

声なき声で導く内なる神を、そうであるとはっきり認識できるまでにはある程度時間がかかるにしても、すでにそれは始まっていると言えます。 実際かなり厳しい試練を自らに課して、そこでの試行錯誤による気づきと自由への道を選択している人も少なくないでしょう。
彼らによって開かれる扉は、リアルタイムで同じ道を望む全ての人(ONE)にとっての希望としてシェアされています。
その道のりは、決してエゴの求めるような優等生的なものである必要はなく、たとえ今は強風に向かって一歩も進めなくても、3歩進んで4歩下がるように見える結果であっても、あらゆる経過が偉大な共有財産となります。その勇気は宇宙から賞賛され尊敬され、祝福されています。

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