1999

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Invitation to Freedom

2、癒しの方向

 

b) 謝罪

・外側の神仏に頼る

強引な思考停止は抑えて、内面の状態をある程度までは認めていますが、その罪深さに対する漠然とした恐怖(天罰など)に脅えているため、権威としてシステム化された「神仏」などを利用する懺悔謝罪によって問題解決を図ろうとします。

修行や戒めと称して肉体を精神的物理的に痛めつけたり、神の代理を喧伝する権威団体への奉仕や献金等を通じて罪の許しを乞います。これらを禊(みそ)ぎにして済ませたいという思いです。
苦しさを受け取って耐える度合いを反省と服従の証明であり罪滅ぼしの成果だとする、「神」との取引計算が基本となっています。

自分が納得できる程度の修行、あるいは難行苦行を乗り越えることによって、神仏という問答無用の免罪符を与えられたと思い込めれば一時的にスッキリすることは可能かもしれません。とりあえず信念は現実になります。
しかし対処療法でしかないため、ふりだしに戻って新たな問題は現れ続けます。チリ紙を使えば鼻水は処理できますが、風邪そのものを治すことは不可能です。

謝れば済むのだという安易な思いに流され、行為がエゴによって聖格化されると、いつの間にかそれ自体が(信仰の)目的であるかのようになり、あえて謝罪を必要とするドラマを探して追加創造していく混乱に陥ってしまうこともあります。
そしてますます罪深さを肥大化させ、「あそこが悪い、ここが間違っている、もっと正すべきだ、反省しなければならない」と、ハードルはどんどん高くなっていきます。

神様にちゃんと謝罪している自分は正直で偉いのだという思いは、すなわち自信の無さを抱えながら、その行為を誰か第三者に認めてもらいたいという欲望へと発展します。

さらには自分だけが真面目に苦労しているのは悔しい(つまり見返りが欲しい)という思いが重なって膨らむと、自分を「神」に特別に選ばれた代理人であるかのように仕立てながら「おまえらだってみんな罪深いんだぞ」と他人にも同じことを強制するような形に狂信化し、神仏の名において不安と悲惨を共有してくれる道連れを「世界」に探し求めていきます。

実際にはこれらの経過が微妙で巧偽なエゴのオブラートに包まれて潜伏するため、本人は極めて「正義」のつもりである上に、赤信号を一緒に渡ってくれる仲間の応援(脅迫)も手伝って、自らを振り返る間もなく崖っぷちまで突き進んでしまうことがあります。

迷路を抜け出すのは、「わたし」が主人公となって、「自分」を見つめる勇気にかかっていると言えます。

 

人が最初の段階で意識する「神」とは、もし存在するとすれば、自分の外側にある擬人化された偶像的な神であり、何となく空の上にいて「善」なるものを司っている絶対的な支配者であり、人間が逆立ちしても手に負えないような超越したパワーと権威を持った「誰か」であると思うことがほとんどだと思われます。

「神」は裁く側であり、人間は一方的に裁かれる立場だと言われても、そういう構図を余り不思議に感じません。まるで神とは愛と正義を建前にしながら、千里眼を利用して自らが創造したはずの人間のあら捜しを趣味(ライフワーク)にしている存在のようです。

これらの定義は自らの内面から自然発生したものではなくて、物心がついた頃より外部から少しずつ取り入れてきたイメージやデータが元になっています。当然生まれ育った国、土地柄や社会環境、権力者の都合(虎の威を借ることによって自らの権力拡張、エゴの充足に利用)によって差異が生じます。 この「神」の正体は「情報」であると言えます。辞書に掲載するための単語に過ぎません。人間によって生み出されたものであり、神とは別の物です。 

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