1999

1 2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15

 

Invitation to Freedom

2、癒しの方向

 

自己処罰

自虐的な行為を「世界」に向けて発表し、哀れさや惨めさ辛さがもたらされる環境に自らを追い込むことによって償いをしようとする試みです。
ここでは既存の宗教的な方便は利用しませんが、やはり漠然とイメージされた「神」の存在を視野においた上で、自己処罰による苦しみの程度を「罪」の代価として捧げます。
ほんの些細なはずの「嘘」を嘘のまま放置したために、知らず知らずのうちに積み重なった罪悪感は、自分が幸せであることは申し訳ないのだという思いこみを形成し、その望みにかなった(これがお似合いだと価値判断される)現実を創造していきます。

具体的には日常生活や人間関係の中で、うまく行かなかったり損をしたり、虐げられたりするドラマを自分に課していくレベルから始まります。
境界線の中に身を閉じ込めて、怒り悲しみ痛み、ストレス、孤独感などを罰として忍受します。一括払いでは恐いので、チクチクとした分割払いです。
しかし内面の状態を知らなければ、それを自分がしているとは気づかずに、ただ一方的に「世界にやられている」という認識しか残りません。 ときには「自分ほど愚かな者はいない」と開き直ったり、無力で動けないフリをすることを通じて、弱者としての「やむを得ない事情」をアピールし、自・他・神に釈明しながら情状酌量を願うこともあります。

それでもまだ量刑に納得がいかない場合には、あえて破滅的な行為を繰り返すようなキャラクターを演出することによって苦しみを追加獲得するという方法にも至ります。
憎悪や嘲笑の対象となることで(それによる痛みで)罪滅ぼしをしようとするのは、汚れた足で床掃除をするようなもので、同時に新たな罪悪感が累加されていくために終わりがありません。
他人から嫌われたり自分を卑下して楽しい人がいるわけはなく、鬱積する思いは満期になると暴発という形で払い戻されるサイクルが悪循環されます。
これが拡大すると、いわゆる「犯罪者」を演じ、法律や社会の枠組みを利用して他人が自分を罰してくれることに頼る方向も生まれます。「悪人」という肩書きを得れば、「正当な理由」で裁かれ罰してもらえる分だけ納得できるような気がするからです。
罪悪感というのは、「悪いことをしてしまった。もうやめよう」と働きかけるものではなく、「どうせ悪いのだから、もっとやってしまえ。どうにでもなれ、ヤケクソだ!」という方向に導きます。そのまま最後まで押し切れるのならばまだ増しだともいえますが、自暴自棄にも思考停止にも未来はなく、麻薬の禁断症状から逃れるためにさらに麻薬を打つのと同じで、後になればなるほど精算時に苦しい結末が待ち構えています。

光を見つける

社会の中では、悪を徹底的に指摘すればするほど、相手が後悔して逆の方向(善)に進むだろうという方法論が、嘘と誤解によって蔓延しています。
フォーカスされるものは拡大するので、さらに頑なになるのが結果です。萎縮すれば道は閉ざされます。指摘する内容が正論であることを証明しても役に立ちません。愛を迂回し、エゴを書類上納得させるための材料になるだけのものです。誰もが本当はわかっていることでしょう。

「矯正してあげる、救ってあげる。そのためにやっているのだ」などの表立った「正義」の裏側にシロアリとして隠れ潜んでいるのは、他人の弱みにつけこむことによって自らのコントロール下に置きたいという、怖れと牽制がベースとなった思いだと言えます。
誰かの悪の指摘に無中になっている場合に、そこに望んでいるものを正直に問うならば、相手が闇から抜け出して自由になることではなくて、逆に無力であり続けること(自分を脅かさない存在であること)なのだとわかります。これはもちろん自分自身が自由でないことを象徴しているわけです。

闇を減らせば相対的に光が増えるだろうという推論は、一見正しそうに感じられますが全く失敗します。減らそうとか排除しようとするエネルギーの本質は、どんな理由で飾られようとも結局は闇側(幻想)のジャンルに含まれるからです。 「ONE(大いなる一)」という理解の中では、排除する対象(別のもの)や廃棄する場所(別の場所)は存在しません。

ところが光(実相)に注目すると闇は消えます。
一つの光を生み出すことは、その数千数万倍の闇を帳消しにするパワーを持っています。正確には「闇は最初から存在していなかった」ことを証明します。
一人の勇気は多くの人の恐怖を取り去ることが出来ます。 つまり排除するのではなくて、注目する対象を変更するということです

光とは、相手のよい部分を認め、賞賛し祝福するという道になります。 これは何でもかんでも「そうだね。そうだね。いいよ、いいよ」と甘やかすこととは違います。お世辞は表面上は励ましているように見えても本当は相手の停滞を望んだ行為だと言えます。
相手のエゴには喜ばれるけれども本当の力にはならない内容だと知りつつ、自分への関心を引きたい(ゆくゆくは相手を思い通りにコントロールしたい)がために嘘をついてしまうという欲望に取り込まれないように気をつけたいところです。子供が泣いて欲しがるからといって、朝昼晩と栄養の無いお菓子を与え続ける親を賢明であるとは呼べないでしょう。

無いことを有るというのがお世辞で、あることを見つけてあると言うのが祝福です。前者は無理と工夫をしているのに対して、後者は当たり前のことを普通に言っています。
もし誰かの調和を望むとき、裁きや非難をしないとしても、ただ漠然と相手の気づきを待っているだけではほとんど何も変わりません。積極的に光を見つけていくことにより変化(あるがままを思い出すこと)が得られます。
たとえ九分九厘が闇に包まれているように見える人でも、残りの一厘の光に注目しそれを拡大することです。それは結局自分自身の光を見つける作業になります。そのために縁として現れたドラマでもあります。

人によって光や闇に傾いた素性があるというのは錯覚であり、あらゆる人間の仕様は同一に創られています。
イエスとヒトラー、ガンジーとポルポト、どちらも人間として持っている光と闇の総量や勢力バランスに差はなく、経年変化することもありません。彼がそこで内面のどの部分に焦点を当てることを選択したかというだけです。

祝福するには、する側のコンディションが大きく関わってきます。自分自身を祝福していなければ息は続かずに、途中から路線を逸れて非難や裁きへと入れ替わってしまいます。 心からの賞賛には、自らが内側に神を見つけていることが大切になります。すると「外側」にも神が自然と見つかります。

→次へ