1999

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Invitation to Freedom

2、癒しの方向

 

2-3 改善

改善を目指すターゲットとなる「自分」というものについては、普通は3つの可能性があると思われます。

  • 自分とは肉体である。
  • 自分とは魂(霊)である。
  • 自分とは肉体と魂(霊)である。

やがて、その三つを自分だと認識している「わたし」という存在が最終地点にあるということにも気づきます。 常に全ての最終地点に存在している「わたし」とは誰なのかというのが一つの答えになりますが、ここでは保留することにします。

ともかくその「自分」にどうもいろいろと不具合があり、悪さや間違いをしでかすために、これまでのような否定的なドラマが生み出されてきたのだという推論を成り立たせるわけです。
改善の核となるものは、精神世界的な単語で大きく括ると「修行による浄化」ということになるでしょう。

努力の積み重ねによって、自分が「よい」方向に変化改善される。 改善矯正された自分は、もう悪さや間違いを起こさないだろう。あるいはその確率が減るはずだ。 よって悩み苦しみなどの不幸は起こりにくくなっていく。 という展開に望みを託します。

さらにうまくいけば悟りを開けたりするかもしれないし、そこまでは望まないとしても、とにかく少なくとも現状よりは癒されて幸せに近づいていくだろうということです。
もう一歩、あと一歩と蜃気楼を追いかけながら、段階を踏んだ直線的な向こう側、時間的な「いつか」に完成されるはずのものへ答えを求めていきます。
しかし「いつか」はどこまでいっても「いつか」です。 宗教のみならず精神世界やニューエイジ他にしても、多くがこれらの方向を支持する場合があるため、このような旅のプランにほとんど疑問を持つことはなく、どこまでも突っ走ってしまうことがあります。
修行は手段ではなく目的となっていきます。 「今度こそは間違ってないだろう」と思っているだけに、外部に敵を探していたときよりも混迷期間が長引いてしまうこともあります。

また自分がすでに犯してしまったはずの問題(罪深さ)が、もはや取り返しがつかないほど悪化していると思い込んでいたり、修行を突き詰めたあげく効果が上がらずに中途挫折した場合などには、その重圧によって自暴自棄に陥り、再び外部世界との葛藤に逆戻りしてしまう場合もあります。
そうなると出発前よりも強固に因習に縛り付けられて身動きがとれなくなり、苦しみを倍増させてしまいます。

確かにこれまで行った(自称)罪が、いわゆるカルマとして清算されて現れるのを待っているのは恐ろしいことです。しかし打開策はあります。 いわゆる原因結果の法則の一部であるカルマは、エゴという土台によってのみ成立するものなので、それを越えることが出来れば、どんなに借金があったとしても帳消しにすることが可能です。

エゴを越えるという道を望まないのならば、与えたものを受け取るという二極構造の波にさらわれるでしょう。全てを自分が創造しているとは気づかず、「やられた」という犠牲者の役割を演じ続けることになります。そこには釈迦も説くように悲惨があるだけです。

 

2-4 エゴと嘘

エゴのことについてはこれまでいろいろな角度から書いてきました。本当の自由を目指すならば、避けて通るわけには行かない重要なテーマです。

「世界」に敵を探して戦おうとする行為は、大河の流れを、バケツで水をすくって止めようとしているのと同じだと言えます。 どのような大河であっても、源流を遡っていくと山の小さな湧き水などから始まっていることが発見できます。 その湧き水がエゴにあたり、ドラマ創造の源になります。

エゴだけはしっかりと抱えて離さないままで、「とにかく苦しい、助かりたい」と言っても打つ手はありません。
たとえどんなに優れた本を読んでも教義に触れても、師や超能力者に前世を調べてもらったり撫でてもらっても、自力で難行苦行をしようとも空回りだけが生まれます。

宗教に加われば、許しや友愛などが説かれた教義内容そっちのけで、「どちらの教義が正しいか」などの対立や勢力争いに明け暮れます。
組織内においては、見かけ上はどうあれ実質ピラミッド形式の上下関係の中で、「足りない」こと(神や教祖の恩寵、終末に救われる人数など)を前提とした席の争奪戦、自他牽制大会が繰り返されるでしょう。 それらの行為が、表面的な教義遵守のもとに、笑顔のドラマで行われたりもするので、問題の根は厄介で深くなってしまいます。
大きな組織を避けて、小規模なグループあるいは個人で修行等をするにしても、やはり自他の比較において、誰が一番浄化されたかとか、誰が偉いか特別か、先に進んだかなどにとらわれるので、目的がすり替わってエゴが増殖するだけの結果になります。

 

「エゴと言われても、わたしは別に独裁者のようなことをしているわけでも、欲望を満たすためにテロや強盗、酒池肉林な生活をしているわけでもない。
多くは望まず、普通に慎ましくやっているだけだ」と思うとしても、実際には日常のさりげないやり取りの中に潜む小さな「うそ」が、ボディーブローとなって徐々に蓄積し、自らを破壊していきます。

エゴは無限に言い訳や仮面を用意します。「このくらいは、どうせ誰にもわかりゃしないさ」でやってしまうことで、どれだけ自分を痛めつけているかがわかりません。
たとえ他人に分からなくても、自分だけは確実にわかっています。思考停止が通用するとしても、その場限りのことであって、自分からは決して逃げられず、コンコルドに乗ってマッハで移動しても、やはり自分が今ここにいることを発見します。 うそやごまかしをしたという思いは、さらにうそやごまかしによって開き直りや無価値感に化け、「わたしなんて、どうせこんなもんさ(ね、そうでしょ?)」という透明な文字で「自分」に刻み込まれます。
この否定的なエネルギーは名刺代わりに放射され、その問いかけに対して世界は、望んだ通りに「そうですね」という形でドラマを返してきます。 何よりも先にエゴを癒していくことが急務であると言えます。  

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