1999

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Invitation to Freedom

2、癒しの方向

 

信念と体験の関係は宗教的なシステムの基盤としても利用されています。
実際に深い信心や宗教的な活動を通じて「この神様にお願いしたおかげでわたしは救われた」という現実を得ることは可能です。
この場合にも同様に、(外側の)神様の力よって救われたのではなく、「その神様にお願いすれば救われる」という信念を自分が持てたことによって、そういう結果(救われる現実)が現れたというのが実際に起こった経過です。
信念が先で体験は後です。 自分が信念を持つための材料として役立つならば、神様Aでも神様Bでも、あるいは聖人でも宇宙人でも何でも同じだったことになります。鍵は外側ではなく自分です。

つまり自分が現実を創造しているのだと受け入れることが出来るならば、偶像的な神様も献金も外側のものは何も必要としません。
イエスの述べた、あなたの信仰(信念)が、あなたを癒すのだというのはこれを指しています。

宗教組織などの外的な権威に頼ろうとすることは、背に腹は代えられないような緊急事態において、実際に楽になる可能性があるという意味では必ずしも無駄ではないし、どのような体験もタイミングも貴重なものであると言えます。
ただし、繰り返し書いているように外側にあるものはやがて消える無常な存在であるので、救いはその場しのぎの一時的なものでしかなく、モルヒネ効果が切れたら苦しみが再発することは避けられません。

永遠なる神の国は、内側にのみ存在します。

 

宇宙によって創造される「世界」には何でも起こります。宇宙にとっては、人間が価値判断するところの善悪良否の分類は全く興味のないことです。
神による既製品としての善悪もありません。ただそれとして存在し、「無」を放出し続けています。

さまざまな出来事が現れても、なぜそうなるのか、なぜそれが起こるのかは人間智の性能では推し量ることも制御することも叶いませんが、想像することは可能であり、結局それが自分の事実上の体験となります。

創造は愛を基準としていると言いたいところですが、愛を善や正義と混同するならば、遠ざかるだけになるでしょう。
しかし、いかなることが起きようとも、それらが信念のフィルターを乗り越えて勝手にやってくることは不可能です。

「世界」には人間に何かを見せようとする意志も能力もなく、宇宙の提供するものを自由に選択し買い取る主導権は常に、それを見る者ににあります。 見る者(わたし)とは、世界であり、あなたであり、神であります。  

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