1999

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Invitation to Freedom

2、癒しの方向

 

いわゆる犯罪として現れるドラマの目的は、表面に現れるエゴの言い分だけをとらえると「騙してでも得をするのだ。効率よく儲けてやるのだ」などとなるわけですが、奥底にある本当に望んでいるものは捕えられることによって罰を受けることです。処罰を依託しています。
この構図の中では、たとえ一時的にエゴを満たすような現実を展開出来たとしても、それは目的のための一時的な手段に過ぎないので、やがて自らの手によって崩壊させていきます。つまりドラマの結末はやる前から決まっていることになります。

誤算

数十件の窃盗を重ね成功させてきたベテランの泥棒がいます。これまでに集まったお金は億単位にも達しました。 傍目からすれば「しばらくは生活に困らないほどの額も得たわけだし、いつまでも危険な仕事を続けるよりも、もうここら辺で足を洗ってカタギになり、利息やそれを元手にした別の仕事で悠々と過ごせばよいだろうに」と思いますが、そうなることはありません。
ここから最終章が始まります。 たとえばこれを最後のヤマにしようとしても、そういう時に限って、これまでなら決して狙わないような家(たとえば猛犬を飼っている、警報装置が付いている、あまり下調べをしていない、ちょうどその時近くを警官が巡回しているなど)にわざわざ入って捕まってしまいます。
あるいは、ある日天気がよいので何となく散歩に出かけたくなります。用もないのに交番の前をフラフラと通りかかって、たまたま停めてあった自転車に足を引っ掛けて派手に転びます。おまわりさんの「どうしました?大丈夫ですか」とかけた声に驚き、逃げなくてもいいのに慌てて逃げ出して職務質問されてしまいます。

機が熟して本来の目的に向かうべく歯車が動き出したら、もはやジタバタしても無駄な抵抗でしかありません。まるでハンドルの無い車に乗っているような感じです。
上記のようなバリエーションでイージーミスを繰り返しながら、あれよあれよという間に自爆を選択していきます。 どこかの「神」が罰を当てているのではなく、自らが望んだ結果が創造されています。

そもそも罪悪感対策のために考案された犯罪は、問題を解決するどころかさらなる罪悪感と苦しみを積み上げてしまいます。
「自分は幸せになったり楽しい思いをする資格はないのだ」という信念、「自分はそう(嘘や泥棒でも)しなければやっていけない人間だ」という無力感、「(油断すれば)わたしも騙されるに違いない」という恐怖感などが、見返りとして深いところに重く刻み込まれます。
他人から言われたことならば跳ね返しようもありますが、自分から沸き上がってくるものから逃げる術はありません。

日常生活の中で何をやるにおいても、それら信念がドラマ創造の土台となるので喜びの現実からは遠ざかっていきます。
たとえば「自分などが美味しく味わってはいけないのだ」という信念があれば、どんなに高価な物や食べ物を得ても、文字通り砂を噛んでいるような感覚にしかなりません。 人間の五官は、対象からもたらされる様々な刺激を、常に一定の印象として測定できるような装置ではなく、その時々の体調、信念、先入観、感情の動きなどにより相対的に結果を変化させていきます。
全く同じ食品を摂取しても、一人で食べるのと好きな人と一緒に食べるのと、笑いながら食べるのと怒りや怖れに震えたり悲しみに暮れながら食べるのとでは、それぞれ違った味がフィードバックされます。

また「自分がやったことと同じことを、他人も(いつか自分に)やるはずだ」と信じることになるので、当然「やられるまい」と、常に緊張しながら監視の目を光らせなければならないでしょう。
猜疑心、牽制、不安、怒り、非難、防御、虚勢、コントロールゲーム、これらをキーワードに据えた生活が展開されることになります。

他人からの笑顔を受ければ「きっとわたしを馬鹿にしているはずだ」、誰かに道を聞いても「どうせ嘘をつくに決まっている」、恋人だって「実はわたしを愛してないはずだ」、何か物を買う度に「お釣りをごまかされるのではないか」など、このような思いこみに基づいたドラマがあらゆる場面に適用されていきます。
信用できるものは見つからず、安らぎは訪れません。ギスギスイライラした陰鬱な世界に住民登録することになります。 物は時間とともに消費されて無に戻る運命にありますが、こちらは減少することはなく膨れ上がって行く一方でしょう。自爆を重ねながら「ほら、やっぱりね」と確信が深まります。

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