1997

1 2 3 4 5 6

 

 
[3.18/中庸]

中庸とは、二極の中間地点を見つけることではなくて、

二極の中間地点が存在しないことを知ること。

すると極は崩壊し、全てが中庸になる。

 

 

[3.19/悩み苦しみ]

最近、だんだんと個人的な悩みや苦しみが無くなりつつあるようです。いつの間にか気がついたらそうなっていたという感じです。いわゆる聖人が言うところの悟りの境地というのは、結局はよくわからないのですが、そんな大げさなものとも違うようです。

実際に何かが変わったのかというと、ほとんど変わったものは見当たりません。確かに嫌な人や嫌な出来事に遭うことは激減しました(これまでも遭ってなかったのだという気もします)し、怒ることも減ったのでエネルギーを効率的に使える、つまり無理をしないようにはなりました。
しかし、無念無想で心は微塵も揺れることもなく、顔には常に微笑みを浮かべて、完璧な判断と行動をしている・・というのとは全然違って、間違えるときには間違えるし、石が落ちていればつまずいて転ぶこともあります。痛いものは痛い。いろいろなことはこれまで通りに起こります。肉体個としての自分は、宇宙そのものを理解することも制御することも不可能です。
それでも悩み苦しみが無くなりつつあります。今現在その渦中にある人には、こう書くと怒られてしまうかもしれませんが、これまでに経験してきた「悩み苦しみ」だと思っていたものは幻想でした。

心の中には何もないとわかると、人形のように無感動無表情になるかというとむしろ逆で、心は自由になりました。つまり普通に泣きたいときに泣き、笑いたいときに笑います。当たり前のようですが、これまではそれをやってなかったわけです。ほとんどが社会の「普通」に合わせた価値判断の中で「〜べきときに」やっていました。
悲しいときには前よりも敏感に悲しくなりますが、やはりそれが「苦しい」のとは違ってきているようです。また昔「これはネガティブだ」と勝手に名付けていた感情想念もそのままありますが、もう毒素としては存在していません。
神のエネルギーの一つのダイナミックな躍動であるそれを、ありのままに体験します。誤解を恐れずに書くと、「喜んで」います。いやいやではなく積極的に、人間であることの全てを感じたいような気持ちです。せっかく生まれてきたのだから。
動揺するときにも、これまで通りちゃんと動揺しますが、同時に「ああ、動揺しているんだな」と観察している感じでしょうか。怖れもあるし欲望もある。何かがうまく行かなければがっかりすることもありますが、それを観察している「わたし」は、悩み苦しみの外側にいます。
ちょうど映画のスクリーンの中に自分がいるという幻想から離れて、だんだんと観客席の方に座っている自分に気づき始めたというところです。

だから今後もし映画のスクリーンにゴジラやキングギドラが登場することがあれば、たぶん悲鳴をあげて泣きわめいたり、慌てふためいて腰を抜かしたりもするかもしれませんが、「悩み苦しむ」ことはないでしょう。そういう意味では無敵になったのかも?はっはっはー。(^_^)/

 

[3.20/悩む苦しむ]

上に書いたことは微妙に表現が足りなかった感じがするので追加です。「悩み苦しみ」がないのではなくて、「悩む苦しむ」がないというのが正確です。悩み苦しみを悩む苦しむ必要はないということ。よけいややこしいかな。(^_^;)
だから、何もしないでただ寝そべっているのではなく、悩み苦しみを解決しようとする積極的な動きはするわけですが、悩み苦しみながらはやらないということでした。

→次へ