1997

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[1.7/祈り(1)]


あけましておめでとうございます。 本年もよろしくお願いいたします。

初詣で賑わう年頭にあたって、最初に考えたことは「祈り」についてでした。

 

■祈りの道程

「祈り」を始めるとき、最初の段階としてあり得る傾向としては、御利益主義を前提とする宗教などに多く見られる、自己の欲望達成を中心とした祈りがあります。
外側の神仏、あるいは悪魔など特別な権威に感じられる対象に向けて、自分だけの幸せや成功をお願いしています。自らを無力化し責任放棄しながら、現実化を仲介業者(どこかの偉大なる何か)に頼んでいます。どうなるかは「神々」の胸三寸次第で、幸せの許可申請制度です。
当然、許可される者とされない者という構図が予想され、そこから「自分だけはなんとか」という奪い合いの発想が根底にありますので、極端な場合には、それを得るために他人の不幸せや失敗をも望みます。もはや呪いという言葉に近いと言えます。
御利益中心の場合は、よりオイシイものを求めますので、あっちの水のほうが甘そうならば、さっさと神仏を取り替えての宗教ツアーが繰り返されます。神に対する信仰や尊敬と言うよりも、「日々の修業やお布施をしたのだから、それなりの見返りがあって当然だ」という論理です。神との取引を目指しています。
祈りの内容はおもに、「自分だけがお金が儲かりますように、宝くじがあたりますように、商売が繁盛しますように」などで、広がっても「自分の身内家族だけの平和と健康と幸せ」の祈願です。家族の幸せを願ってどこが悪いんだと思いますが、それだけを願っているのならばやはり完全自分中心の祈りになります。ぐっすり眠っている状態で起こります。

第二段階では、他人のことも祈るようになります。しかし「ついでにあの人も幸せになればいいな」という程度のもので、あくまでも自分の幸せが優先で、もし余ったら他人もということです。“おすそ分け”の祈りです。
その時々の事情で内容は変化します。つまり、自分の景気が良いときはともかく、悪くなれば、おすそ分け出来る比率はどんどん下がっていくわけです。
それでも第一段階ではさすがにどうかと思う場合、これならばいくらかは、自らに言い訳を確保でき、エゴも安心できます。要は自分のための、弁解の祈りと言う側面があります。
一般には特に考えることもなく、普通にここに属する人が多くなるのではないかと思います。わたしもここは長かったと言えます。

第三段階は、他人中心の祈りです。
これは一見聖なる感じがして正しいような気がします。「善」の価値判断の中で心地よくも感じます。
しかし「自分なんかどうでもいいから、他人に幸せになって欲しい」というのには嘘があります。「世界」と「自分」が切り離されていて、“別”ものに対する祈りだからです。またその殉教者的な態度にエゴは満足しますが、本音はそうではないのでこの祈りには力がありません。
これは宗教活動や精神世界に関わってしばらくすると、「正義感」に燃えて陥りやすいパターンです。
その裏側には「どうです神様!この立派な私を見てください」という駆け引きも隠れていますし、さらにその先にあるのは「だから私を救って」ですから、結局中身は第一段階とあまり変わりありません。
この祈りでは、祈った相手が本当に幸せになったりしたら、嫉妬してしまいます。祈りながら心の奥底では、「誰もわたしより幸せになってはならない」という心理が働きますので、形だけの祈りであります。
人は自分が幸せでなければ、他人の本当の幸せは祈れないでしょう。ただしこの「幸せ」の意味は、エゴを満たして得られるような錯覚の幸せではなくて、真の幸せです。

ここまでの祈りの特徴として見受けられる傾向には、祈り方が大げさであるということがあげられます。一般に第一第二段階あたりまでは、儀式や呪文が派手やかで、ショー的な要素があります。第三段階においても、イエスなどが嫌った、街頭に立って行うような「人前で見せる」祈りになる場合があります。

 

[1.7/祈り(2)]

祈りの第四段階は、自他同一の祈りになります。自分が半分相手が半分という意味ではなくて、お互いを「一つ」としてみんなが100%で幸せになるようにという祈りです。祈る対象は、人間だけではなくて地球や動物やあらゆるものにも向けられます。
そのためにはもちろん自分自身を愛し、エゴによる「奪い合わなければ誰かが不足する」という幻想や怖れを乗り越えていく学びも必要となります。そして自らによる現実化の責任を自覚することも大切であります。

ここからの祈りは、人前で行われることはほとんど無く、自分以外に証人を必要としません。見える形としても静かに手を合わせるぐらいで、多くの場合心の中で手を合わせます。
祭壇的なものがあっても、それとわからないくらいの質素なものです。もちろん祭壇を外側の偶像崇拝物として拝んでいるのではなくて、ただ内側との公衆電話として使っているに過ぎません。
ただし、まだちょっと“頑張って”祈っています。

第五段階は、わたしがこれまで知識として知っていた最後の祈りで、それは“祈らない”ということです。祈らないと言っても、本質的には祈っているのですが。
精神世界原理主義?的に言いますと、「祈りは、祈る者と祈られる相手の二つ(自他の分離)が必要であるから、「一つ」という真理においては矛盾してしまう・・」という感じでしょうか。
頭では言っている意味はわかりますが、それもやはり理屈の範疇で言葉の遊びに過ぎなかったことに気がつきました。
第五段階は書いたり考えたりするようなものではなくて、書いてしまうとその瞬間に違うものになってしまうでしょう。そして似て非なるものをそれだと思って、実は第四段階よりも低いところをさ迷うことになります。
精神世界の学びのちょっとコワイ所は、何となくわかったような気にさせてくれる言葉や概念に溢れていることでもあります。そして頭の中だけで停滞してしまいます。第三と第五は「ひっかけ」でしたが、これも一つのステップとして、わたしには必要な体験だったのだと思います。

頭の中をリセットして、第六段階として気づいたことは、「やっぱり祈る」ということでした。
今この瞬間瞬間に縁がある人、思い出す人、全てのものに対して、何と言ったらいいか・・ただふわっと「幸せになればいいな」とか「ありがとう」って思うことです。余計な工夫も理屈もなく、形にとらわれずに、ただ思っていること。
まったく頑張っていない祈り。祈り損なったからといって自分を責めることもない。時間も距離も関係なく、また結果にも無頓着な祈りです。
「一つ」とか二つのものになっているとか、そんな理屈はどうでもよくて、ただ静かに心の中で手を合わせています。ニューエイジ的な感覚に違和感の無い場合には相手が光に包まれるのを想像したりするのもいいでしょう。
これは次の時代には当たり前となる、口で話すことから心で話すことへの転換への練習にもなります。口(頭)と心では別のことが言えても、心の中では二つのことを同時に話すことは出来ません。

第六段階では祈りが、特別なものではなくて、呼吸と同じような普通のことになっています。 自然な祈りです。生きる=祈りです。
わたしの場合はこんなに単純なことを学ぶのに、ずいぶんと「遠回り」をしました。
これを続けているうちに、いつの間にか、本当の「第五(第七?)段階」に入っているかも知れませんが、そのときにはもうそんな位置づけなどはどうでもよくなっているでしょう。

メールをくださった方のお話の中で、「自分がさんざん苦しんできた道を出来れば他の人には歩ませたくない、だから自分をシェアすることによって他の人が楽になるための何らかの一助になりたい」というのがありました。これは精神世界的な学びをされている方々の一つの本音であり、尊い祈りだと思います。
しかし直接的な関わりには限界がありますし、それぞれの学びのステップや速度の選択を、自らの勝手な価値判断(自己満足のため)で強制的にどうこうすることは結局不調和でしかありません。相手のありのままの道と勇気を(たとえそれがひどい苦しみであっても)尊敬したいという複雑な思いもあります。

祈りというネットワークで一つにつながっているわたしたちは、学びながら今ここにただあるだけでも充分に「他人」の助けになることが出来ます。
一つの可能性の枠は、次の可能性の枠を作ります。ある人が長期にわたってやっと学び得た可能性は、次の人はもっと短期間でそれを学び得る可能性をもたらします。
たとえばわたしが5年かかって学んだものと同じことを、次の人は2年かそれ以下でマスター出来るでしょう。そのまた次の人は1年で出来たりします。ちなみにわたしが5年で出来たことは、その前にそれを10年でマスターする可能性の枠を作ってくれた人のおかげであります。それは数千年前には、何度もの転生によってやっと学び得るものだったかもしれません。無数の方の努力によって、今のこの時代が生まれました。

これまで書いた祈りの段階は、あくまでもわたしの場合のパターンをもとにしていますので、この通りの順番を踏む必要はなくて、第一段階からいきなり第六段階をマスターされる方もいらっしゃると思いますし、そうあって欲しいと願っています。

一人一人が今ここで勇気を持って自立し、自然な祈りとともにあることが、これからの地球と人類にとって大切だと思います。

 

 

[1.25/孤独を認める]

「他人」と向かい合ったときに 、気がつくことがあります。

彼の声はどこで鳴っていて、どこに聞こえるのだろう?
彼の口の中ではない。 それはわたしの耳の中である。そこ以外にはない。

彼女の体はどこに現れていて、どこに見えるのだろう?
どこか向こう側ではない。 それはわたしの目の中である。そこ以外にはない。

お互いの体を観察すると、大抵のものが二つずつ見えます。
彼女の右腕が見え、わたしの右腕が見える。
彼女の左足が見え、わたしの左足が見える。
彼女の胸が見え、わたしの胸が見える・・・。

ところがどうしても一つしか見えないものがあります。
それは頭。「彼女の頭しかない!?」

人間は二人いるのに、頭が一つしかありません。

「そうか、それが今のわたしの頭なんだ」

わたしが熟睡していたり気絶しているときに、 「他人」は存在することは出来ません。 ・・きっと彼は笑いながら(わたしの耳の中で)こう言うでしょう、
「君が眠っているときにも僕は存在していたさ」
しかし、ラマナ・マハリシが言うように、 彼のその証言が聞けるのは、わたしが起きているときだけです。

正直になると、一つの答えから目を逸らせなくなります。 人はこれを認めたくないばかりに、 必死に記憶喪失のゲームをやっているのかもしれません。

「わたしは孤独である」

「孤独」をすなわち「否定的なもの」として短絡させる必要はなく、 本当の孤独とは「大いなる一」としての安らぎであります。 何も心配は要らないということ。
わたしが「世界」であり、全てが可能であるということ。 それを認めて初めて、「他人」として現れている「自分自身」と、 調和の中で遊べるのではないかと思います。

ところでこの光る文字はどこに存在しているでしょう? パソコンのモニターの中ではありません。 わたしの目の中に存在しています。
そこ以外にはありません。

文字は自分の頭があると思いこんでいる場所にある、 全てを包み込む「空(わたし)」の中に存在しています。

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