2000

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釈迦の卵

 

 

さて八正道の実践において、「自分」の範囲内だけから一歩抜け出して遠くに目をやると、「世界」には相変わらず苦しみが満ちて(正しく生きられない人たちで溢れて)いることに気づきます。良い状態であるように見えるのは極めて狭い枠の中だけです。

正しさを積み重ね、形と理屈をいくら整えても、やはり自他の分離意識は消え去っていません。むしろ正しくなってしまったがゆえの区別観念に引きずられます。

「世界」は無常(物事は定まることはない)である原則からして、それを直接思い通りに出来ないことは知っています。コントロールしようとすれば悲惨を経験します。不確定要因の集まりとして掴み所が無く変化するさまを見送るばかりです。

そのような「世界」に対して無防備でいることは出来ません。うっかり油断すると流れ弾に当たり、守らなければ火傷してしまうのではないかという恐怖感は克服できず、防御壁の中で日夜右往左往している状態では、根本的な平安にはほど遠いことが分かります。
どこまで「正しさ」を追求しても、自分にとっての質のいい防御壁を調達できたということに過ぎず、ある時点でスランプと袋小路に陥ることを経験します。

同じ所をまわっている内に、「どうせ自分には釈迦のような特別な才能が無いのだろう」と諦めが生じることもあります。

釈迦が八正道に託した本音とは、たとえば正思の場合「正しい思いをしなさい」ではありませんでした。
「正しい思いが出来ますか?正しいとは何ですか?誰にとっての正しさですか?」そして「正しい思いができるものならやってごらんなさい」という問いかけに続きます。他も項目も同様です。

 
「正しくする」ことに努力を積み重ね、何度も「今度こそは正しくできたはずだ」と思ってみても、やはりその基準となるものの曖昧さに突き当たります。
  あらゆる場所に線を引き直したあげく、そのどれもが外的条件に左右されていることに気づきます。自分の行いを誰かに見てもらい、承認された上でのみ成り立つという性格のものです。もちろん相手ごとに評価も変わります。普遍性がありません。
  そして最後には「正しくなど出来ないし、またそれをする必要もないのだ」という智慧に達します。むしろこの正しさへのこだわりが恐怖と苦しみを生み出してきました。

これまで培ってきた正しさとは、どのように巧妙に飾り立てようとも自らのエゴに最適化されたものに過ぎませんでした。
  たとえば「正しく見るとは自分の立場ではなく、他人の立場に立って見ることだ」と結論づけたとき、「よし、素晴らしい定義が完成した。これを踏まえて精進しよう」と納得するわけですが、その時々の「他人の立場」を裁定するのは誰なのかというと、また自らのエゴに戻ってくるというトリックです。
  エゴは決して自らに不利な行いをすることはなく、周りを見回し分析して、あくまで許せる範囲、得をすると信じる範囲の中でのみ駒を動かします。
それが彼に任せられた大切な役割(「自分」を守ること)なのだから当然ではあります。

「愛」も「悟り」も「究極」も「浄化」も、文字や単語で表せられるものは全て、他人(という幻想)に見せるためのお芝居としての意味を持ち、比較と分離構造を前提として成り立っているとも言えます。誰かを愛する、誰よりも悟った、誰かの中の究極、誰よりも浄化です。
「利他的な愛」「反省」「〜しなければならない」など、それら言葉が言葉のままで完了し、中身を伴うことなく生産消費されていきます。言葉で満腹になると智慧には至りません。

そもそも「正しい・正しくない」という二極化した考えによって、何かになろうとしたこと自体に根本的な疑問が生まれます。
  極のどちらに行っても「他方」が見えます。
何かになるのならば、反対側に「なっていないもの」の存在を必要とするわけです。

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