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Invitation to Freedom

.感情のマスター(00.08.11)

 

3-5.思いやり

 感情と正面から向かい合い、そのエネルギーの傾向をありのままに受け入れて、怒りというものの正体を見切れるようになると、これまでならば上下左右の区別も付かなくなるほどの怒りに征服されていたようなドラマの渦中においても、怒りを十分に体験しながら、同時にそれを利用して自分自身と相手を思いやる方向に転換する余裕さえ生まれます。

自分に起こっている経過は、当然他人にも起こり得るわけですから、そのことを踏まえた上で、誰かが表面的には理不尽と認められる行為を演じているときにも、裁く気持ちに直行する一歩手前のところで、他の選択肢を見つけることが出来るわけです。

自分もすぐに誤解してしまったり怒りが起こったように、人間という種は24時間常にエゴの求めるような理想的な状態であるわけには行きません。わけも見つからずイライラしていたり、辛いことがあって落ち込んでいる時もあるでしょう。他の特別な事情があったのかもしれないし、たとえ思い込みが一人歩きしているだけだとしても、結果的にそれを受け止めきれずに肉体表現を通して溢れさせてしまうこともお互い様です。

ドラマの一部分だけしか視野に入らずに思い詰めてしまうと、これらを悲しい性とか欠点という価値判断に持って行きやすいのですが、全体像を広く掴めるようになると、ある種の(神の)「ユーモア」として感じられる方向も見えてきます。  そうなればもはや、相手を価値判断して正さなければならない必然性も、自分を上にしなければならない欲求も、コントロールや防御をしなければならない焦りも、愛さなければならない義務もなくなります。
思いやりとは、相手を助けてあげようとすることではありません。理性による狭い視野では否定的な価値判断しか出来ないものであっても、そこに神の手が働いていること、完璧なタイミングで最善がなされているのを知っていることです。相手のありのままを認めながら、自分のありのままを認めています。

 

選択できる自由

誰かに酷い思いをさせられると、その時点では怒りと被害者意識で一杯になることがあります。そして「今に見てろ、必ず見返してやる」と悔しさをバネに努力し、とうとう望みを手に入れ改めて全体像を振り返ったとき、この原動力となった相手とは本当に敵だったのか、あるいは恩人だったのかという問いも生まれます。
待ち合わせの約束時間に遅れた人がいて、「あいつがノロマなせいで出発時間に遅れてしまった。せっかくの旅行が中止だ!」と相手をさんざん非難し恨み怒りまくっても、しばらく後に実は自分が乗るはずだった列車が事故にあったという話を聞くと、今度は印象がガラっと変わってしまうでしょう。するとあの怒りに費やした時間とエネルギーは何だったのだろうと言うことにもなります。  この場合、最初の「遅れた」という段階において、絶対に損したに違いないという怖れの固定観念にのみ縛られずに、多面的な意味や可能性を受け入れる余裕を持てれば、また違ったドラマをも創造できます。

このような極端な例だけではなく、どこからでもそこに肯定的な意味合いを自分が選択できるという自由があります。

旅行に行っているはずだった数日間を、怒りの暴走に全面費やすこともできるし、もっと適した楽しいことを見つけるチャンスが到来したのだと喜ぶこともできます。そして信念に沿ったものを、同時に何でもある「世界」の中に見つけていくでしょう。
たとえ前者を選択しても、当然その意味も後から塗り替えることが可能です。「これは怒りに身を任した貴重な体験だった」と言うことが出来る「今」この瞬間だけが唯一存在しています。

あらゆる瞬間において、どのように反応するかについて、自分は選択の可能性に満ちていることがわかると、大きな安らぎが約束されます。

自分を認め許せるようになると、相手も認め許すことが出来るようになります。また相手を許しているうちに、自分が癒され、自由を得ていることに気がつきます。

神は人間に自由を保証し、すべてを中立のものとして与えています。たとえ怒りという感情であっても、厄介なだけとか無意味なだけ(という意味に限定するような形)で存在させることはありません。
これまでは苦しみを体験し得る自由として使っていた怒りを、これからは自他の癒しの道具として使うこともできます。

怒りに関して長年に渡って染みついてしまった価値観による嫌悪感や罪悪感を、簡単にはぬぐい去れないとしても問題はありません。
急いで無理に解放しようとすると歪みが生じる場合もあるので、古いパターンをしばらくは繰り返すことになっても、徐々に慣らしていくのが有効だと思われます  精神世界の知識は、それだけをただ積み上げても実際の効力がないものがほとんどですが、「怒ってもよいのだ」という事に関しては、ただ理屈として頭に入れておくだけでも即効性があると言えます。
一歩ずつがなによりの近道であります。 

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