2000

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釈迦の卵

 

 

「善」を追求していくと、その「善」を存在させるためには、どうしても「悪」の存在を必要としてしまいます。右は左を必要とし、上は下を必要とします。

悪を嘆き、悪を憎み、悪を追い出そうとして善を求めてきたはずなのに、実はその善のために悪を必要とし、両方を同時進行で創造してきたのは、他でもない自分自身であったことに気づきます。これでは世界に「正しくないもの」が見え続けるのは当然のことです。

釈迦にしても旅の初期においては、この世界には最初から悪が存在し、それが悲惨の原因となっているので、正さなければならないのだと信じていました。黒を白に塗り替えてしまえば問題は解決するだろうと、あらゆる方法を模索します。

やがて「悪」が自然発生的にそこにあるのではないことや生みの親が誰なのかに気づきます。一人芝居で二極の入れ替えを何度繰り返しても同じことであり、白黒順位付けをする発想そのものに矛盾があることも知りました。

いわゆる善なるものがあるとするならば、彼は片極を意味する「善という言葉」も、自分が善という名前だということも知らないはずです。

むしろ「正しいもの」を捨て去ったとき、「間違ったもの」も消え去り、空(ありのままの神)が残ります。もはや価値判断の必要はなくなり、ただ「一つ」があるだけになります。

一般に「中道」とは二極の中間地点や程良い加減のことのように誤解されますが、そうではありません。中間地点や加減は常に揺れ動いてしまいます。

中道とは二極を統合した状態のこと、同時に両方の極であること、
つまり「極」の意味を失った状態を指します。
どこかの一点ではなく、あるもの全てが真ん中になります。

釈迦は自らの教えの中でわざと「べきだ・べきではない」を駆使し、いかにも正しさを見つけることが大切であるかのように説きながら、もう一方では「自己を灯明(または島)とせよ。自己(神我・アートマン)を拠り所とし、他のものを拠り所としないように(大般涅槃教)」とか「自己こそ自分の主人。他のものがどうして主人であろうか(法句教)」と説いています。
「こうしなさい。さもないと来世においてその業の報いを受けるぞ。地獄や畜生道に落ちるぞ」と因果応報や輪廻思想等でさんざん脅かしながら、「こうしなさいを鵜呑みにするな。まず自分を主人とせよ」と言ってるわけです。人々にこの矛盾を突きつけながら試しています。

臨終に際しては、「わたしの亡き後は、まず自分自身を頼りにせよ、それからわたしの示した教えを頼りにして生きなさい」と述べていますが、多くの人は順番を逆に受け取り、教えが先で後から自分が追従してしまいました。

釈迦の教えは、自立を促すための愛情深い大嘘に満ちています。トリックを見破らずにまともに組み合うだけでは、出口は見つかりません。

そもそも嘘であるものを盲目的に受け入れてしまう前提から出発すると、論理を強引に整合するために難解な学問や哲学を生み出さざるを得なくなり、さらなる混迷の度を深めていくことになります。

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