2000

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釈迦の卵

 

原始仏教の基本となるものは「悪いことをしてはならない」です。善を推奨し悪を捨てよと説くもので、有名な実践法として八正道があります。

  • 正見(正しい見解)
  • 正思(正しい思い)
  • 正語(正しく語ること、正しい言葉)
  • 正業(正しい行為または仕事)
  • 正命(正しい生活)
  • 正進(正しい努力)
  • 正念(正しく念ずる、正しい気遣い)
  • 正定(正しい精神統一)

普通はこれを見たときに「正しくしなさい」という意味だろうと理解します。言われた通りに実行すれば、悲惨から逃れられ、いずれは悟りや解脱にも繋がるはずだと信じます。  そして「正しさ」について、さまざまな理屈や定義を当てはめては一生懸命努力することになりますが、愛や調和など思いつく限りの「良さそうな単語」を網羅すれば、エゴが納得できるような「正しさ」論がいくつでも出来上がってしまいます。

一体どの正しさに照準を合わせればよいのか迷いが生まれ、ときには解釈を巡り、正しさVS正しさで喧嘩が始まることもあります。

 

教えを文字通りに受け取り、修行として本気になって実践しようとするならば、形の上では出来ないことはありません。特に俗世間や雑音から離れて修行者として専門的に生きるならばそれほど難しいことではないでしょう。 「おっと愚痴を言いそうになった、おっと欲望を持ちそうになった、また変なことを考えそうになった、右足と左足を出す順序を間違えた、いかんいかん」と、自分の動きの一部始終を監視しながら、理性によって厳しく律していきます。  趣味で切手を収集するように、結果を集めていく作業です。切手帳の完成を目指しています。そこには今のための今ではなく、いつか(という幻想)のための今があります。

人間は普通せいぜい百年足らずの寿命でワンサイクルですから、苦い薬を鼻をつまんで一気飲みするようにすれば、気合いだけでも最後まで乗り切れるかもしれません。  ストレスは溜まりますが、絶対権威から与えられた大切な教えを守っていることの満足感、期待感、帰属意識による安心感、慰め、あるいは優越感で帳消しにも出来ます。

また在家においても出来る範囲で前向きにリストをこなすことは可能です。言われた通りやってみた結果、確かに「自分」という範囲、個人的なドラマ傾向においては、以前のような安易なトラブルや悩みは起こり難くなったと感じます。否定的なドラマは最小限にくい止められているようです。  これを支柱として続けていくならば、何でもありの「世界」とはいえ、比較的平和で安全な今世を全うできる確率が高くなるとは言えます。

しかし魂の見地からすると、「自分」がここにあることの意味は、釈迦も述べている通り一つには「悟り」や「解脱」と呼ばれるものを通して輪廻の輪を止めること(ゲームを卒業すること)ですから、それを果たせずに生を終了すれば、またゼロにリセットしてこの世界に戻ってくることになります。何度でも繰り返されます。

期限はないものの目的優先なので、今回の環境条件(刺激)でそれが果たせないとするならば、次回は必ずしも現在と同じような環境(たとえばそこそこ豊かな国の普通の家庭)を選択するとは限らず、ときには極端な実験をすることもあり得ます。

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