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Invitation to Freedom

.感情のマスター(00.08.11)

 

 3-2.錯覚と肉体表現

一定周期でやってくる「身を守らなければならない(はずの)」ドラマの中で、いろいろな角度から理由を付けて、あるいはその余裕もないままに「怒り」を発散し、具体的な生傷が増えていくのを目の当たりにするにつれ、ある時点でこの感情と遊ぶのには徹底的に懲りてしまうでしょう。
しかし懲りてもそれが無くなるわけではなく、使用差し止めの決意もあまり効果が得られず、怒りに対して怒ってもむしろ勢いは増す一方です。  「気づいたときは終わった後だった」の繰り返しに呆れ、自他への弁解にも疲れ、手に負えない無力感とともに、ただ自分が嫌いになってしまうこともあります。
エゴは罪悪感や自己虐待行為による苦痛を赦免材料として利用します。
怒りでどんなドラマを創造しようが、誰を傷つけようが、最後にこの免罪符さえ罰金として支払ってしまえば帳消しだとして、怒りの堂々巡りに導いてしまいます。

怒りは諸悪の根元のように忌み嫌われています。宗教や多くの教えでも怒りという感情を礼賛するようなものは見当たらず、ほとんどは「それを捨てよ、克服せよ」あるいは無理矢理でもいいから「他の好ましい感情に転換せよ」と説きます。
ときには「この感情は悪魔の囁きだ」とか「闇の申し子だ」などと散々な価値判断がなされ、自己を改造・制御できるような修行が提示・奨励されます。

悪魔だ闇などと脅迫されては、改善する以前に恐怖感や自信喪失で気持ちが締め付けられることもあり、むしろ「悪魔上等」と開き直り、単に借金を増やしただけで振り出しに戻ってしまう傾向も生まれかねません。

人によって過去におけるトラウマ等の「引っかかり」がそれほど重いものではない場合、努力次第では怒りの感情をある程度まで制御することも可能ではあります。
そうなれば条件反射的に「怒り」を発散し、行く先々でトラブルを創造していた時よりは確実に痛みと苦しみの少ない世界と人生環境を獲得できるでしょう。一時的には悪くない方法です。

しかし、それでは問題の根本を解決しているわけではないので、24時間体制で監視の目を緩めないように努力し続けなければ、ちょっと目を離した隙に「怒り」が現れて慌てます。あくまでも消臭剤であって、臭いの元を消しているわけではないからです。

見た目の肉体反応だけを理性の力業で押さえつけ、怒りの制御に成功したように見えても、別の仮面をかぶって暗く地下に潜伏してしまうような場合などは、かえって問題を複雑化させることもあります。
どちらにしても他人に見せるための芝居をしているに過ぎず、罪悪感や怖れ、分離差別意識などの苦しみはついて回りますので、これらは暫定的な措置でしかないと言えます。

一般に「怒り」を定義するときに、たとえば頭に血が登って眉がつり上がり、唇が小刻みに震え、大声を発しながら見境なく暴れるような肉体表現を指すことがあります。そこにはこの肉体表現と「怒り」が同一のものであるという錯覚があります。怒りから導き出された一つの傾向とは認められますが、怒りとは別のものです。  
むしろそういう肉体表現を選択しているときは、ちゃんと怒ってないのだと言えます。

これらの肉体の動き、生理的な反応は、怒りという感情に対する否定的な先入観から、それと向かい合ったり、じっくり体験することを怖れて、ただひたすら逃げようとしている様を説明しています。 
「うわっ、怒りが現れた、怒りは悪いことなのだ。また悲惨なドラマを創造して自分や誰かを傷つけるかもしれない。神に裁かれるかもしれない。怒るのは嫌だ、逃げたい。助けてー」と慌てふためき恐怖で気が動転している経緯が、肉体の興奮として翻訳されているものです。

怒りっぽい人というのは、怒りに対するネガティブな価値判断が人一倍強いと言うことを示しています。「ああ、こんなに怒りを生み出すわたしは駄目だ。悪いのだ」という思いが、「これが怒りのデフォルトだ」と刷り込まれている例の見慣れた作法を機械的に演じます。
生来の真面目さが裏目に出ている状態です。さらに挫折感を積み重ねてこじれると、いわゆるキレるという方向にも発展します。

 

刷り込み

たとえば怒りや不満などが溜まったときに愚痴や陰口を表現すると、胸のつかえやストレスなどが発散でき、気分が軽く楽しくなるのだという刷り込みがあります。

ところが実際にそうしている人を観察してみると、前評判とは違い、楽しそうには見えないことに気づきます。
表面的には嬉々としているのですが、眉がつり上がり、確かに「笑顔」というジャンルではあっても口元は歪んでいて、瞳のうるみは理性が心の望みとは裏腹なところで一人歩きしているときに現れる症状の一つです。

どう見ても平安な表情というよりも、ますますストレスや罪悪感、無力感などを溜めて苦しんでいるようにしか見えません。
試しに「楽しいですか?」と尋ねますと、イライラしながら「楽しいに決まってるだろ!」と怒りが返ってきます。楽しいのに怒ってるわけです。

普通に考えても、愚痴によって自分に自信がつくとか、「陰口が上手な自分は何て格好いいのだろう」と誇りに感じる展開は想像し難く、むしろ逆に自分に対して否定的なイメージをを刻み込んでしまうデメリットの方が自然に理解されるはずです。
どこかで誰かに「そうなる」と言われたことを、自分で検証することなく、ただ鵜呑みにして機械的に繰り返してしまうのは、それほどまでに自分の感情と遊離しているということになります。
頭と情報だけが一人歩きして、自分が実際に感じていることがわからなくなっています。

あらゆる感情は、神の一部であり対等なものであり、あれは良いこれは悪いという境界線は人間によって敷かれた幻想に過ぎません。あれは神だけどこれは神じゃないというものは存在せず、ある=神となります。

・喜びという感情によって問題が起こらないのは、喜びが正しいものだからではなく、喜びでは問題が起こらないと思っているからです。

・怒りという感情によって問題が起こるのは、怒りが間違っているからではなく、怒りでは問題が起こると思っているからです。

主体者による価値判断、つまり「考え」によってドラマは創造されます。非常に単純な仕組みです。怒りという感情が問題となるのではなく、「怒るとやばいのだ」という思い込みが信念となり、それに沿った現実を呼び込んでしまうわけです。

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