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Invitation to Freedom

.感情のマスター(00.08.11)

 

3-1.怒り

三次元世界において人間という種を演じる場合、さまざまな感情の起伏を体験することが出来ます。しかしそれぞれには一定の価値判断が与えられていて、たとえばいわゆるネガティブな感情とされる代表格には「怒り」があります。

怒りは、日常生活の中で悩み苦しみのドラマが現象化するときに、その構成要素のどこかには、主役であれ脇役であれ必ず常連のように構えているものの一つです。
この感情が暴走した場合、他人や自分を傷つけたり、信用や友人恋人、お金や人生の時間など多くのものを失うことがあるように経験されます。

通常は自らに生まれた怒りを表現行使したときに、「ああ、よかった。怒れてラッキーだった」と思うことはありません。
自他の勝ち負け(パワー競争)を意識した強がり、自分の無力さ(またやってしまった)に降参した自嘲的な意味合い、あるいは自己憐憫や愚かさの演技を通して誰かの注目と救助を求めたい場合などに、そういうフリをしてみせることはあります。

たとえ「正義の怒り」のような言葉を自他に言い聞かせ、理論的正当性や殉難的な立場を固めたり、誰かや何かに対する責任転嫁に成功しても、漠然とした不安感や後味の悪さ、自己嫌悪などが拭い去れないことはしばしばです。肉体的な暴力行為を伴った場合は尚更になります。
あえて申告しなければ誰にも分からない部分も、一番分かりたくない「自分」にだけはどうしても分かってしまうのは避けられません。こればかりは誤魔化しようがないということです。

エリマキトカゲが立ち上がって走るのは、見かけはコミカルであっても楽しいからではなく、外敵から逃れるための止むに止まれぬ必死の行為だと言われています。
怒りがなぜ生まれたのかを正直に検証すると、本当は外側に宣伝しているような前向きな意図によるものではなく、自己に押し寄せる怖れから何とか逃げ出したいという目的からなるものだと気づきます。直接間接を問わず、このままだと何かを奪われるとかやられてしまうのではないかという恐怖感に後押しされた渋々の防衛行為です。

怒りを発散するには精神的にも肉体的にもかなりのエネルギーを消費しますが、その努力に見合っただけの成果を得られることはないでしょう。
多少の(自己防衛には成功したらしいとか、どさくさに紛れて本件とは関係のないところの個人的な欲求不満を合理的に(と思い込める形で)解消できたとか、相手を力業でコントロールできたらしいという)安堵感のようなものはあるにせよ、その引き替えに背負ってしまう苦しみは、冷静に照らし合わせると一万円を払って百円玉を買うような全く割に合わないものだと気づきます。

しかも頑張れば必ず望むように怒れるとも限らず、不発のままただ返り討ちに合ってしまうリスクもあります。
その場合には、誰かに虐げられたり罵られることなどを罰として受け入れることで、自らの罪悪感を多少なりとも償却・御破算するための代替えに利用出来ないかという方向に望みをかけたとしても、やはり最終的にはストレスとともに新たな怒りのループへの招待券が残るだけでしょう。

もしそのドラマ状況における反応として自由な選択肢があり、たとえば「喜び」や「優しさ」などが選べるとするならば、「怒り」はわざわざ他をキャンセルしてまで選びたい感情ではないと思われます。
しかし自分から目を逸らし続けてしまうと、背に腹は代えられないという判断により、嫌々でも怒りの方を選択してしまうケースは頻繁に生まれます。

喧嘩

怒りと密接につながっているように見える、いわゆる喧嘩という行為の構造は、当事者双方とも自分の方が相手よりは絶対に正しいか、たとえ51対49でも、こちらの方に幾分かの理があるはずだとの確信から行われているように表向きは見えます。
しかし本当は自分は正しいと信じている(正確には善悪という二極化した価値観から離れている)人が喧嘩という表現を選択することはありません。どちらか一方でもそうならば喧嘩は成立しないでしょう。

実際の喧嘩は後ろめたい人同士によってのみ成立しています。本当は自分も正しくない(だろう)ことを、自分や相手が知ってしまうことへの怖れが喧嘩という手段を呼び起こします。
聖書の中の売春婦に石を投げつけた人たちにとって、投げた石の数は自分の後ろめたさの量と比例していると言えます。

自分ならば決してやらないと確信できる「間違い」を誰かがしているときに、それを非難する思いや、自分と比べて見下さなければならない必要性が生まれることはありません。むしろ純粋な慈しみの気持ちが生まれます。
同じような状況ならば自分もやってしまうと思うか、過去に似たようなことをやったことがある場合に、その恐怖または事実から逃げるために夢中になって相手を責めたくなります。

喧嘩とは、自らの後ろめたさを相手に投げかけ、その場に起こるエネルギーの混乱に乗じて問題の本質を有耶無耶にすることを意図したものだと言えます。お互いを利用して思考停止状態になることに同意しています。
仮に出発地点では自分の方が確実に間違っていたり無茶だと分かっている(分かりそうな)場合でも、相手が喧嘩に応じてくれれば、後からのこぼれ玉を拾って「俺は二回しか殴ってないのによくも三回殴ったな」のようにテーマをすり替え、不透明なままで流局収拾させられます。

しかし、もし相手が喧嘩に応じず、どんなに嘘や逆恨みなどで無理難題を吹っ掛けてもとうとう相手にされなかったりすると、この方法は通用しません。
受け取りが拒否された宅配便の荷物のように、当然差出人の元にそのままが返ってきてしまうので、今度は自分が送った物の中身と対面しなければならなくなるでしょう。

 

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