2000

1 2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15 16

 

 

釈迦の卵

 

釈迦は悟りを開いたとき(最初から悟っていたことに気づいたとき)、次のように思いました。

「この教えは深遠で微妙なものだ、人々には理解されまい。また言葉で説明のしようもない。沈黙しよう」

宇宙の成り立ちや全体像を見渡したとき、「一見すると生老病死など苦しかないように見えたこの世界も、火事場のように見えたのも、それらは最初からあった絶対物ではなく、自分の当時の必要(それを見たいというリクエスト)に応えてそう見えただけであった。
つまり自分を説明するものでしかなかった。 実は全てが神の元で意図されうまく働いている。「聖なるもの」であっても「邪悪なもの」であっても、高級も低級も、塵一つまで神の範囲外のものなどどこにもない。森羅万象が神そのものである。何も問題は起こっていないし起こりようもないのだ」と気づきます。

現代においてもこれだけ多くの事件が起こり、問題が山積し、悩み苦しみ切羽詰まった人が見られます。
釈迦の時代ならば尚更に戦乱の世で理不尽がまかり通っていただろう世界を見渡して「何も起こっていない」と言うなんて、よほど呑気なのか修行のし過ぎで頭がおかしくなったのではと思いたくなるかもしれません。

しかし釈迦の見る「世界」には、もはや救われない人間や哀れな人間の姿はなく、煩悩をゲームルールにして動き回っている如来たちの姿があるだけでした。
「真実が分かった以上、もはや何もやることはないし、わたしはこのまま死んでしまっても満足だ」と思ったとき、梵天(ブラフマー神)と呼ばれるエネルギー(ゲームオーナー)が現れて、「人々のために法を説いて欲しい」と説得されます。

すでに自分と他人、あれとこれという感覚はなくなっていましたが、あえて再び分離幻想の中に身を投じ、一般に「悟った人とはこういう感じだ」とイメージされるものに「自分」を合わせ、世界には別々のものがあるかのようなフリをしながら仏教という方便を広めることを決意します。  神のゲームに、これまでは人間という幻想で、これからは新たに「如来を自覚する者」として参加することにしました。

 

釈迦が「言葉では説明のしようがない」と感じたのは本当のことですので、言語化された教えの正体は当然「嘘」であるということになります。最善の選択としての嘘です。 「今世で苦しみを選択してでも来世の喜びを得なさい」と言うときには、「誰の来世なのか、今ここ以外が本当に存在するのか」という問いがあります。 「今苦しんでいて、来世が喜びになりますか。来世になったときに、あなたは「いつ」にいるでしょうか?前世のその時、あなたは「いつ」にいましたか?」です。

粗食をしなさいと言うときには「誰にとっての粗食なのですか」となります。一日の食事をリンゴ一個にしている人を贅沢だと見下して、自分は米一粒にしたと悦に入っても、それさえも贅沢だという人が現れたらどうするのか。誰がどこで線引きするのかと問いかけています。執着や欲望についても、善と悪の本質についても同様です。

身体を不浄だとし、そこから出るもの(鼻水、よだれ、垢、脂、小便など)を指して「汚いだろう?愚か者は無明に誘われて、身体を清らかなものだと見なすのだ」と言いながら、「誰が汚いと思っているのか、なぜ汚いと思うのか(思う必要を持つのか)」「誰の肉体なのか」と問うように望んでいます。
「肉体は不浄だから愛着するな」という教えだと誤解されることがありますが、肉体を愛すること無しにその執着から解き放たれることは出来ません。憎んだり避けたりすればますますそれにとらわれます。

十善行の戒律として「殺さない、盗まない、邪な情欲を抱かない、嘘をつかない、悪口を言わない、荒々しい言葉を用いない、意味のない言葉を喋らない、貪らない、怒らない、邪な考えを持たない」があり、これらは相手ばかりが自分をも苦しめるものだと説きます。

まさにその通りで文句の付けようがないように見えますが、少なくとも上の全てを一度もやったことが無い人はいないでしょう。
道を普通に歩くだけで蟻を踏み殺すかもしれないし、待ち合わせに遅刻すれば相手の時間を盗みます。「邪」や「意味のない」などの表現も「どこを境にそう認定するのか」の線引きが事実上出来ないので手に負えません。
これではほとんど全員が絶望的、地獄行きです。この場合も釈迦は信じる(鵜呑みにする)人ではなく、疑う(自らに問う)人を求めています。「はい、わかりました」のイエスマンは望んでいません。自分で考えるようにと無理難題を吹っ掛けています。

→次へ