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Invitation to Freedom

.感情のマスター(00.08.11)

 

3-4.感情を受け入れる  

たとえば駅で切符を買うときに、自分が並んでいる列に他人が割り込んだのを目撃して怒りが生まれることがあります。
どんな感情が生まれようともその経過には全く問題はないので、怒りたくなったらそれを意識的に受け入れることが出来ます。
怒ってはいけないなどと価値判断すると、例のステレオタイプな肉体表現を再演せざるを得なくなるかもしれません。まず自由を得ます。
自由を獲得することによって他の選択肢も見えてきます。いつでも怒れると思うと、試しに怒らないでみるという展開を考える余裕も生まれます。他の可能性を並べて検討できるわけです。  エゴは小さな子供ですから、その駄々っ子なパターンからすると、駄目だと言えば言うほど反対の方向に向かい、「どうぞ」と言うと今度は騒がなくなります。

怒りが生まれる背景には、誤解や思い込み、視野の狭さ、さらには自分勝手な都合などが原因として含まれている場合がほとんどではあります。だからといって怒るのは無駄だと門前払いしてしまうと、大事な部分を見落としてしまうことがあります。

全ての感情は基本的に同じものなのですが、確かに「怒り」の方が「喜び」と比べれば不快と感じやすい(馴染みの薄い)エネルギーの躍動であることは間違いないので、それを自分が選択したのではなくて「与えられたのだ」と思い込むことは、つまり攻撃されたのだと錯覚することにもつながりかねません。
慣れるとワサビと唐辛子の差ぐらいにしか感じられなくなるとしても、被害者だという定義を信じる(信じたい)ならば、防衛行為に至るのもやむを得ないでしょう。

「これは悪い感情なのだ」というのを前提にして怒りが生じた場合、エゴは瞬間的にその「正当性」に関する始末論文を構築することがあります。
駅の例に戻ると、たとえば自分の切符を買う時間が遅れることや、相手が社会ルールを守らないこと、周囲の人にも迷惑をかけていることを根拠として、自分は正義を守るために仕方なく怒らされた犠牲者であると認定し、建前と権利を確保します。
犠牲者としての意識が非常に強くある場合には、頭に血が上り、目の前が真っ暗になって、大声で怒鳴るとか直接相手に掴みかかってしまうのを止められないかもしれません。
もし騒ぐだけ騒ぎ、感情の波が引いてから改めて辺りを見回したとき、実は相手は目が不自由な人だったとか、落とした財布を親切に拾ってくれようとしただけだったとか、よく見たら自分の方が間違った場所に並んでいたということになると身の置き所がないでしょう。
しかも自分が起こしたの騒ぎによって結局誰もが切符を買えないような状況に陥っていれば、「正義の味方」のつもりで出馬しただけに、残される嫌悪感や挫折感と、そこから逃げるための開き直りや思考停止欲求という悪循環は、かなり厳しいものになると思われます。

そこまでしなくても、一日中不快な思いを引きずって関係のない人に八つ当たりしたり、あるいは愚痴の相手を強要するなどの否定的な反応の選択によっても、ストレスが置き土産となる、同じような物語が毎回展開されることになります。

感情を自由に受け入れてもよいのだということを前提として怒りを生じさせると言い訳は必要なくなるので、今度はドラマの全体像を違った角度で見ることができます。

怒りの原因とされていたはずの、切符の購入が数十秒遅れる程度の実害や社会ルール違反を正す目的、周囲にも迷惑を及ぼしているという問題などは、本当は自分にとってどうでもよいことであり、エゴが手近な名目として利用しただけかもしれません。
怒りの中心部にあるものに正直になったときに、割り込みをされたことによって自分は馬鹿にされたのではないか、攻撃されているのではないか、何かを奪い取られるのではないかという怖れが見つかることがあります。

そうした怖れがどこから来たのかについて検証すると、列の割り込みを演じた彼によって新規に引き起こされたものではなく、自分の過去のある時点においてトラウマ的に培われ、内面に残されている「痛み」や「引っかかり」が、このドラマをキッカケとして蘇ってきたものだと気づきます。
過去(よく見ればこれとは全く違ったパターンの物語であったとしても)と同じ事が起こるのではないかという同一化幻想が、怖れの原点となっています。    たまたま目の前を通り過ぎ、フラッシュバックの引き金となっただけの二次的原因を怒りの当事者として断罪することが出来ても、自分の内面の「ひっかかり」箇所が癒されなければ根本的な問題は解決しません。否定的な信念だけが強化されて次へとつながっていきます。

「ひっかかり」は取り残され泣き叫んでいます。それを無視し続ければ、また違った状況においても、ときには強引な思い込みの中で、何度でも自分の同じドラマを誰かのせいにしながら繰り返してしまうことになります。
もしかすると割り込んだとされる彼は、実際にはそんなことをしてなかったのかもしれません、他の人が見てもやはりそうは見えないのに、自分にはどうしても見えてしまった(見たかった)という可能性もあります。
ニューエイジ的な見方からすれば、彼は自分の中の問題を気づかせてくれるために現れた恩人ということにもなります。

感情を受け入れ、その顔形を確認しながら「怒る」ことが出来れば、このような気づきによって、苦しみの空回りから抜け出す道を見つけることが可能になってきます。
最初の引っかかりとなった事件についても、「絶対にこういうドラマだったはずだ」とロックされている一方的な解釈以外のものが見つかるでしょう。

偶像化された怒り

現代社会の特徴として、理性面のみが偏って進化し重用されると、弊害的に「感情」のような捕らえどころがなく定量化しづらい対象は後回しされてしまう傾向が生まれます。
自分でじっくり体験するよりも、統計上の体験「談」を優先し、ある人にとっての現実でしかないものを、自分の現実のデータストックとして安易に受け入れてしまうことがあります。

特に否定的と定義されているものに関しては、わざわざ自らリスクを背負って再検証するよりも安易に避けて通ることにより思い込みばかりが先行して、実像よりも大変なものが出来上がります。

怒りについても、噂やイメージだけがどんどんと膨れ上がって、妖怪変化になっているようです。
耳年増な部分、過剰な包装紙を取り払い、価値判断や罪悪感を捨てて、一度まともに素の怒りというものに向き合ってみると、言われているような危険で手に負えないエネルギーではないことが分かります。

怒りが現れてムカムカーっとしているときの感覚は、確かに気持ちのよいものではないし、苦しいといえば苦しいのですが、だからといってよほど強烈な場合でも、誰かを殺したくなるとか、見境なく暴走せざるを得ないほど大げさなものとは思われません。
計る単位も計測器もありませんが、あえて不快感比べをするならば、一週間以上便秘したり、風邪を引いて寝込んでいる方が苦しいような気もします。  小さな子供がお医者さんで注射をするときに、正味はチクっとした痛みなのですが、先入観による恐怖心で実際以上の痛みを感じて大泣きする子もあれば、逆に平気な子もいるでしょう。

怒りの果てに創造されている否定的なドラマの多くは、オリジナルな必然性を抱えているのではなく、「こういう状況においては普通、このように怒るものだ」と記号化された「作法」が一人歩きし、実際に自分が感じている不快感のレベルや欲求を差し置いて、機械的に作法マニュアルをなぞっているだけの可能性が疑われます。  

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