2000

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Invitation to Freedom

4、神を知る条件

 

4-1.基準値

今から8年ほど前になりますが、目の病気で入院したことがあります。基本的には原因不明で、失明する可能性もあるものでした。
 
  それはある日突然やってきました。なんとなく見え方の様子がおかしいので医者に行くと、明日にでも即入院即手術した方がよいとの宣告。これまで病気らしい病気をしたことがなかったこともあって青天の霹靂でしたが、この展開では悩んだり迷ってる暇もありません。

人間をするにおいて「見える」というのは、当然のこととして受け止めていました。確かに生きている以上は怪我や病気があり得るとしても、まさか自分が当事者になるとは夢にも思いません。それが前後の脈絡や伏線もなく、あまりにもアッサリとやってくることに、頭だけでわかっていた無常の意味を思い知らされます。
 
  わたしはそこまでの数年間、「空のささやき」にあるような形での神(真理)の探求をしていました。

気がついたらすでにここにあって、まあそれなりに頑張って生きているこの世界。楽しいようなそうでもないような、目的があるようなないような、明日の保証があるような無いような世界。
それでも放っておけばそのうち終点もあるだろうし、目先のイベント処理に行き当たりばったりで追われながら、「定形内」に注意しつつノルマを果たし、慎ましく流れて行くという選択もよいのですけれど・・、本当はどんな意味があって何が起こっているのだろうという疑問はどうしても頭をもたげてきます。

あるいは意味が無いのならば無いでも構わないし養鶏場の鶏が結論になるのならそれでもいいので、とにかく白黒をはっきりさせたい。この内側から勝手に染み出してくる神だの愛だのという言葉は何を指し示しているのかを確かめたいという思いでした。

前にも書きました通り、特定の悩み苦しみに追い詰められての神仏という感じではなく、宇宙から「お試しセット」が送られてきたので使っているうちに気に入ってしまったというのに近いのですが、ともかく自己流とはいえ毎日のように新しい気づきが現れ、視野が開けて、学びは順調に進んでいると思っていました。
しかしこの病気によって今後もそれを続けられるかどうかに直面します。宇宙の智慧にアクセスするためのベースとして使っていたワープロ瞑想のような方法も目が見えてこそ出来るものです。
 
「世界」には神や真理に関する書物やノウハウがたくさん溢れています。また現役でこの道を長く学ばれて、師や聖人と呼ばれるに至った方もいらっしゃるでしょう。
  わたしは得体の知れない宇宙ばかりを相手にしていたため、まだそれらのほんの一部しか知りません。これまで学んだことの真偽を検証したいという思いもあり、いよいよ本格的に調べようかと思っていた矢先でした。
  しかし病気の行方によっては、それらの本を読んだり誰かに会いに行くことも、かなり制限されるか事実上不可能になるとも言えます。
「こうなるのにも何か(肯定的な)意味があってのことだろう」という位の学びは得ていても、「よりによって目でなくてもいいのに」という気持ちでした。

 入院中のベッドの中、わたしが求めている神とはどのようなものかをもう一度よく考えてみました。仮にこのまま失明したとして、神は「残念ながらあなたは今世での探求は難しくなった。生まれ変わってからもう一度出直しなさい」と言うだろうか、つまり見捨てられてしまうだろうかということです。

たとえば目が「見える人」と「見えない人」がいる場合、神と呼ばれるほどの存在が、見える人の方が少しでも学びが優位になるようなシステムを作るだろうか。
これは耳が不自由であったり手足が不自由である場合も同様です。肉体的な障害、環境的な事情を神を知るためのハンデとするような神があるとしたら、そんな神のことなどは知る価値もないし、こちらから願い下げであると気づきました。
 
  そもそも神を知るのには、どのような条件を必要とするのか、必要最低条件となるものは何かを考えてみました。

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