2000

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釈迦の卵

 

そもそも「正しさ」といっても、正しさがわからないために間違ってしまって苦しんでいる人はいません。正しさをわかっていながら間違ってしまうことに苦しんでいるというのが本当のところです。

正しくないとされることを何度も繰り返してしまうから、そういう自分を責め苛み自棄になったり暴れるわけです。制御できない自分に対する怒りや悲しみ、無力感挫折感などが苦しみになっています。
ところが「わかっているはずの正しさ」をよくよく見ると、そこには実体がないことに気づきます。正しくしたいのに間違ってしまうというよりも、間違える目的のために後から漠然とした正しさを用意している順番さえ見えてきます。

24時間体制で価値判断が繰り返され、そのほとんどが有罪です。理性は神を前にして無罪であると言うことはとにかく傲慢であり、有罪であると言うことは目立たず安全で望ましい行為だと信じます。

自分の従っているものが真実なのかそれとも亡霊でしかないのかは、外側の権威に頼るのではなく、静かに自分の内面を見つめることによってわかることなのですが、多くはそれ以前のところで情報の洪水と思い込みによる罪深さの恐怖に押し潰され、とりあえず思考停止状態に逃げ込んだままで身動きがとれなくなっています。

そこで釈迦は大上段から「正しさとはこれこれである」と説き、透明な亡霊にはっきりとした色を付けることによって問題の検証をし易くしました。
自分が執着してきた二極構造の実体を知り、エゴによる価値判断を越えることによって安らぎの道に向かうようにとの祈りが込められています。

最終的にあらゆる問いと答えから離れ、袈裟を脱ぎ修行者を捨て、「仏教」を捨て去ることによってはじめて、釈迦が意図した仏教は完成されます。
師と呼ばれる人の多くは、そのことに気づいても釈迦の思いに敬意を表して、弟子や周りに向け、あえて旧来のままの姿を続けていく場合があります。

仏様を好きだったり、尊敬していたり、崇めているうちは、彼を「どこか」にいらっしゃる方、別の誰かとして見ていることになります。仏様を知るには仏様であることです。

 全ては内側に存在しています。  

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