A. B1. B2. C1. C2.
D1. D2. E. F1. F2.

 

 

 

光と闇の統合

A

1-1. はじめに

昨年母が亡くなり、先日一周忌を終えました。

宇宙には無数の意識(魂)が存在し、あらゆる場所で自らの膨張(創造)を繰り返しています。その中のある“グループ”は創造の担当地域としてこの地球という惑星を選択します。
意識(魂)はこの三次元世界において自由な創造経験をするために、本来の姿を一時的に忘れて五官(視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚)を備えた化身(肉体自分)に乗り込み、このルールの元で様々な人間種ドラマを演じながら、自らが神であることの何かを学ぼうとしています。

それぞれが役割をもって創造の一端を担おうとする際に、同じ時代空間で他人よりも親子や兄弟、夫婦のような密接な縁を選択するということは、お互いの意図を効果的に補完し合うための約束が深い信頼の元になされていると言えます。
分離と孤独、有限な時間を経験できる幻想世界、この特徴的な舞台上で個々の魂が求めるテーマは一律ではありません。
人間の視点からするところの「幸せ」な関係を育む場合もあれは、逆に苦痛をもたらす否定的な演出を共有することが相互の学びの目的に適う場合もあるでしょう。それが肉体自我の視野からでは理解できず望まないドラマだとしても、魂の合意に基づいた青写真が優先されていきます。

このようなアウトラインがあるとしても、現在進行形で降りかかってくる苦しみがリアルで切実な場合、その渦中では冷静に考察する余裕などはないのが正直なところです。とにかく目の前の問題処理に自転車操業で追われるのが日々の精一杯であったりします。
それでも僅かな合間を縫っては、何とか抜け出す道はないかと模索しますが飲んだらすぐ効くような特効薬はなかなか見つかりません。世界の中で自分にとっての障害となっていると思われるものを一つ一つピックアップし、場当たり的に潰していってもキリがないことに気づきます。ネタは次から次へと湧いてきます。

たとえば誰かと縁を持って出会った場合、そこから創造されるドラマ自体に飲み込まれて「相手をどうするのか、わたしをどうするのか」という舞台上の立ち位置に目を奪われるよりも、「なぜわたしはその人と出会うのだろう?」という問いに関心をシフトさせることが出来ます。
無作為な別の誰かではなく、あえてその人に出会った理由です。その人だからこそもたらされる独特なのドラマが意図されています。

この縁を通して(双方は)何をどうするつもりなのかという魂の目的を推量すること、つまり青写真の逆読みが可能です。これが習慣化すると、嵐の中でもあまり揺るがない感覚を得られます。
自分の(見ないように隠していた)ウイークポイントを相手との関わりを通じてさらけ出すようなドラマ展開があれば「なるほどこれを表に出す目的があるのだな」と、もちろん痛がりながらですが分かります。
同じ痛みでも、状況が分かって痛いのとそうでないのとでは結果はかなり異なるでしょう。後者だと怒りや怨み等の被害者意識だけで終わってしまうかもしれません。

このようなドラマ創造システムを突き詰めるならば、「この世界とは一体何なのか。何が起こっているのか。神なるものはあるのか。創造には最終的な目的はあるのか」という根本についての問いに突き当たります。
これには今の段階で思いつくような答えとは全く異なる角度が見い出せる可能性があります。

苦しみから逃れるために強引に肉体から離れる選択をしても、そもそも全体構造が分かっていないのでは本当に逃れられるのかどうかの保証は無いと言えます。
「きっと無になるかも」という希望的観測だけで踏み切ったら、あるいはどこかに審判する神などがいてまたここに強制送還されてしまうかもしれません。
本当かどうかはともかく輪廻転生という概念も存在し、次に生まれ変わったときには前世で逃げた時と同じような課題状況を再現することになるなどと説かれている場合もあります。また始めからやり直しだとすれば二度手間です。
「無」になろうとする以前に、「有」の意味さえ掴めていないわけです。そもそもなぜ「有」になったのか、つまり自分がこの世界に存在している理由を知りません。それでも構わないから一時的にでも逃げ出したいというほど切迫した状況ならば、このような文章を目にする余裕もないと思われます。

世界とは全てがデタラメで偶然で暇つぶしが起こっているだけだと確信できたならば、“前向きな絶望感”とともに安心して「無」を選択する道もあります。それからでも遅くはないでしょう。
少し落ち着いて世界に起こっているドラマを分析すると、さまざまな状況証拠が見つかります。素直な第一印象でこれらは偶然やデタラメかそれとも意図的な何かがあるのかと問われれば、どうも意図的な匂いがプンプンすることに気がつきます。
否定的肯定的を問わず、さまざまな出来事を一歩引いた地点から見るならば、各所に“出来過ぎ”な構図が実感できます。
何らかのドラマが起こるには、当然それに必要なキャストや大道具小道具が絶妙なタイミングで絡み合わないと成立しません。
買い手と売り手、つまり需要と供給が同じ時間や同じ場所で鉢合わせするように、目に見えない力がバックグラウンドで作用していることが見て取れます。
もし全てに偶然やデタラメが起こっているならば矛盾も生じます。たとえば死にたくなるほどの苦しみが粘着的に続くことは逆の意味で不自然です。そうなるにはむしろ何らかの意図的な目的があると推測した方がつじつまが合うでしょう。

これらが神や悪魔の意図なのかどうかは別として、この「世界」と存在について出来る限りの“真実”を探求しようとする選択肢があります。そんなことは無理だと言い切る頑固さや元気さがあるならば、それを進むエネルギーに転換することも可能です。
今はとても信じられないほど苦しくても、もしかしたら神の深い愛があるのかもしれませんし、あるいは悪意のある嫌がらせなのかもしれないし、人間とは単なる金魚鉢の観賞用金魚に過ぎないのかもしれません。またそれらとは全く別の事情も考えられます。
人間生活をある程度経験していると、どうしても最初の段階から一定の刷り込みが根を張ってしまう部分は避けられないのですが、それでもなるべく白紙の状態からシンプルに積み重ねていきたいと思います。

聖者なり教祖なりの誰かが述べたことを鵜呑みにする方法では、結局本当の意味で自分を納得させることは難しいと思われます。何かにすがり続けようとしても、外側にあるものは変化していきます。無常です。もちろん先人の経験や知恵を参考にするのは極めて有効な手段ですが、あくまでそれらを土台として、自立した自分の気づきを得ることが大切であると感じます。

ここには前サイト同様わたし自身の気づきを書き連ねます。これらが正しいという保証は全くありません。しかし素材の一部が料理次第では自らの真実として使えるかもしれません。
全否定だとしても、不要な部分の排除と整理ができるという意味で有意義な結果をもたらします。探求のモデルケースの一つとして、何かの参考になれば幸いです。

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