A. B1. B2. C1. C2.
D1. D2. E. F1. F2.

 

 

 

光と闇の統合

D2

1-5.2 闇

もちろんそんなマザーテレサも完璧だったわけではありませんし、そもそも人間という化身として現れている以上、完璧自体があり得ないものです。
彼女はまさに偉大な光でした。だからこそ、そのこと自体が反対のエネルギーを創造したと言えます。良い悪いの話ではなく、光が強くなればそれだけ影が濃くなるのは避けられないということです。

彼女の話や行為を素直に聞けて、純粋に素晴らしいと受け取れる人は心が“裕福”なのだと言えます。余裕があるとも言えます。それが優れているという意味ではなく、そういうタイミングにあるということです。
反対に嫌悪感を持つ場合もあるでしょう。もちろん直接出会っているわけでもなければ、面と向かって嫌がらせをされたわけでもない、つまり実害がなくてもそうなることがあります。

その嫌悪感の原因は彼女と自分自身を比べたときの価値判断、つまり後ろめたさに起因するものだと言えます。
「あんなに立派な人がいるのに、それに比べてわたしの人生は」という意味合いが生じています。さらには「そんな人生を送っていてもいいのか」と責められているようにも感じます。もちろんマザーテレサは誰かを責めたりはしませんが、その完璧さがまた自責の念に火をつけてしまいます。
これが強くなった場合には、彼女の存在を認めるわけにはいかなくなるので、「あれはきっと偽善に違いない。何か別のもくろみがあるのだろう。人間なんてみんな腹黒いに決まっているのだ」と思い込もうとします。しかしこれには矛盾があり、本当に腹黒いのならばある意味“仲間”なので非難する理由は見つからないことになります。腹黒くないとわかっているから不安になるわけです。

自分が普段ある一つの信念を元に世界を創造しているとき、それがたとえば「やるかやられるか」を基準としたもの、つまりやられる恐怖と同時にやり返してもいい正当性のバランスの中で(本人にとってはある意味調和的に)保たれているならば、その信念方程式を覆すような人が同じ世界に実在してしまうことは大きな混乱をもたらすことになります。
誰かにやられる恐怖が無くなることに関してならば歓迎なわけですが、問題は自分がやり返してきた正当性を否定されることです。信念の再考を迫られて罪悪感と直面しなければならないならば、苦しくても思考停止のまま古巣に執着した方がましだとエゴは考えます。
彼女がもし目の前にいれば、具体的に石を投げつけるかもしれません。それで彼女が怒り狂ってくれれば安心できますが、逆に許されたりしたら、ますます身の置き所がない不快感に包まれるでしょう。

さてこのような場合、普通は間違いを断罪されます。自分は何もしないで僻んで非難しているだけだと解説されるでしょう。その通りです。言われなくても本人が一番よくわかっています。
心が“貧しい”のだと言われれば、それもその通り。爪のあかを煎じて飲めと言われても、逆ギレ以外の反論も出来ない。むしろそう言われた方が余程気が楽なのですが、ときには黙って許されてしまう。こうなると鬱屈するしかありません。
胸を張って自分が正しいと思って嫌悪感が生じたわけではありません。怖れがあるから身を守るために仕方なく暴れているだけで、この否定的な衝動が好きで連れ添っているのではない、つまりもてあましているのが正直なところです。もしお金を払うだけで別れられるというなら、すぐにでも払うでしょう。

存在自体が無駄とされ唾棄されるエネルギー。全く弁護されることもないエネルギー。闇は(持ち主をも含めて)誰からも厄介者として嫌われ見捨てられ放置されています。仮に捕まれば改善させられる対象、つまり存在そのものを否定されている対象です。

このエネルギーをマザーテレサは創り出したということです。「そんなのマザーのせいじゃないだろう。自業自得の自爆行為に過ぎない」と言われるでしょう。確かに彼女が悪いわけではありません。繰り返しますが白黒をつける間違い探しや価値判断は意味がないことです。
まさに闇の勝手だとしても、闇に一分の理さえないとしても、“結果的に”それが創造されていることを否定できないのです。

いわゆる「善人」「悪人」を含めて、地球上に存在する全ての人がそうであるようにマザーテレサは神に祝福されながら最善を尽くしました。そして強力な光であった(あえて言えば光に偏っていた)がゆえに、同時に強力な闇を創り出してしまうこの世界の仕組みが為されたということです。

たぶん彼女自身もこの問題には相当に葛藤されたことだと思います。しかし闇のエネルギーに正論は通じません。自らシスターになろうとするような人たちや尊敬を込めて集まってくるような人たちにならば通じる言葉や常識も、闇に対してはほとんどが空振りになります。
自分の信じてきたやり方、誠実さや寛容さ、ゆるしなどは本当にそうであればあるほど、かえって火に油を注いでしまう。だからこそ闇なのだと言えます。

「愛があれば通じるはずだ」という期待はエゴによるものです。むしろ最後まで通じない人の存在をもゆるすのが愛だと言えます。宇宙視野の愛は人間の一つの世(寿命)の範囲内だけで物事を判断しません。
それは重々承知していても、積極的かつ具体的に目の前に現れて矛盾を表現されると、戸惑うだけで手の下しようがない大きな壁に突き当たったのではないかと思われます。闇は驚くほどエネルギッシュかつひたむきに近寄ってきますが、まともに関われば怒るし関わらなければやはり怒るという中で疲労と空虚さだけが蓄積されていきます。
通常は自分の知っている手法を元に、相手が怒る理由を見つけ、怒らなくても済む方法を提供しようとしますが、正当な理由があって怒るぐらいならそもそも闇ではないという事実を思い知らされます。
この問題はあまりにも根深く困難なので、マザーテレサはシスターたちにはこのエネルギーに関しては、基本的に“棚上げ”することを推奨しました。
頑張れば頑張るほど逆に膨れあがっていく闇。まるで自分がそれを後押ししているかのようにも感じられます。そして結局はその通りであることを認めざるを得なくなるでしょう。

「その人は今は神を知るタイミングではないのだ」と言うのは、逃げの言い訳としては使い勝手のいい表現ですが、知るタイミングではない人など存在しないことは正直になればわかることです。万一あったとしても、それを一面的な情報だけを元に「こちらはタイミング、こちらはまだ」などとより分ける権利など誰にもありません。
神への扉をどのように開けるかについては誰もが自由な選択権を持っていますから、それが今すぐなのか十年後なのか来世なのかはわからなくても、エゴの都合に合わせた「神」や「善」を持ち出して時期を強制したりタイミングを操作するものではないし、出来るものでもないと言えます。

闇のエネルギーの話は、外側の誰かのことのようでありながらも、その内容が理解できるということは、結局わたし自身を含めて一人一人の内面にある問題だということです。
マザーテレサが出会った人は、応援してくれた人も石を投げつけてきた人も含めて全てが彼女自身だったのです。

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