A. B1. B2. C1. C2.
D1. D2. E. F1. F2.

 

 

 

光と闇の統合

B2

1-2.2 “現実”の正体

光と闇の“二つ”のエネルギーは、目の前に広がっている「外側」と認識される世界で具体的にドラマ化されています。
勝手に存在している動きをたまたま傍観しているように錯覚しますが、何の用もないものが現れていることはありません。また誰にとっても同じドラマが見えているわけでもなく、自分に特化されたドラマがそこに見えています。

世界に現れている(認識される)ものは、全て二次的に生じています。自分の「内側」にある光と闇の様相がまず最初で、続いてそれが正確に「外側」に反映されたものであると言えます。
外側の光と闇を見ることによって内側の光と闇が変化するという方向はなく、常に内側によって外側が変化します。鏡に映っている自分の顔が微笑んだのを確認してから、自分が微笑むという順番は無いのと同じです。
劇場で映画を見ているときには、そのドラマがあたかもスクリーン上で自立して存在するように感じられても、実際には映写機とその中のフィルム、そこから放射される光によって投影されているのであって、それが無ければただの白い平面があるだけです。

世界に“光”を見つけた場合、普通は喜びを感じることがあっても困ることはないのでよいのですが、問題は“闇”です。眉をひそめ落胆し憂鬱になるか、その存在に憤りを感じるでしょう。つまり単純に不快な経験に至ります。ひどい目に遭ったと被害者のようにも感じます。
それは自分とは別のもの(むしろ対極なもの)であり無差別に攻撃してくる敵だという怖れから、非難したり嘲ったり哀れんだりと様々な連鎖反応につながることもあるでしょう。
しかし落ち着いて振り返ると一つの結論に導かれます。それは、“自らの内側に無いものを外側に見つけることは出来ない”ということです。

そこにあるものを認識できるのは、それを知っているからに他なりません。それの「真実」を知っているのではなく、それに対する自分なりの解釈を知っていると言うことです。
「宇宙」に固定した真実は存在ません。今この場所で周りを見渡すと様々なものが認識できると思います。「これはあれだ」と、多くを説明できるような気がしますが、実際には自分の住む“村”だけで話題を共有できるというレベル、つまり独特の「方言」を表現しているに過ぎないものです。

宇宙の正体は無であって、真実という概念自体も存在しないと言えます。目の前にあるものが何であるのかを知らないというのは驚きですが、もっと言えば目の前には何も存在していないとも言えます。
この三次元世界では自我の働きを活用して何かがあるような錯覚を体験できるようになっています。

またこの「方言」は統一されたものではないので、相手に大まかには伝わっている程度です。
Aさん:「あれはきれいな花だね」
Bさん: 「そうだね」
この会話は一見成立しているように見えますが、Aさんが感じて伝えようとした“きれい”がそのままBさんに伝わっているわけではなく、Bさんが知っている(経験したことのある)“きれい”に変換されているだけのものです。

世界に存在しているものを、自分自身のフィルターを排除した状態で認識することはできません。
つまり誰かを見て評価する場合でも、結局は相手を説明しているのではなく、こういう場合にわたしならこうする(だから相手もそうしているはずだ)と、自分にこれまで培われた特定の角度からの経験情報を元にして、自分のことを説明しているに他ならないと言えます。

不親切に感じる人に出会ったとき、その人が本当に不親切な人なのか、実際に不親切をしたのか、誰から見ても不親切なのかは別問題です。他の人からは親切に見えるかもしれません。
認められるものは、“自分にとっては”確かに不親切に感じられたという点だけでしょう。
他人のことが分かるはずだという想定は錯覚だと言えます。長い時間一緒に生活を共にする親兄弟にしてもわからないのですから、他人ならばなおさらです。相手の人生全般は言うまでもなく、ほんの五分前に何を経験し何を考えたのかさえわかりません。今現在暑く感じているのか寒いのか、どこが痛いのか痒いのか何もわからない。これらは脳みそを交換でもしない限り無理です。

ここで起こったことは、その出会った状況下で「わたしなら不親切にする」という信念パターンを相手に投影し、それを前提に思いこみを拡張して、自分の望む否定的なドラマとして状況を認識したということです。
自分にその要素がなければ、発想自体が浮かびようもないわけです。人と人との関わり合いは、思いこみ同士のぶつかり合いだと言っても過言ではありません。
もちろん思いこみ自体が悪いのではなく、それが肯定的なものならば、肯定的なドラマになります。三次元上の経験はどこかの神の気まぐれな“さじ加減”で変化するのではなく、自らの信念がどうなっているか次第で実質的に変わってくるのだと言えます。

他人を見て、「なぜこんなことで怒っているのだろう」と不思議に思うときがあると思われます。自分ではそれが怒りを呼び起こす場面とは思えないからです。ときには「むしろ喜ぶべき状況じゃないの?」と感じる設定さえあるでしょう。しかし怒っている本人は至極まじめです。彼には怒るだけの理由がある世界が“実際に見えて”います。
何かが自分の信念のネガティブな部分に抵触したため、発作的に闇のドラマに取り込まれているわけです。
具体的には過去における自分のある否定的な経験との同一視が起こっています。同じ経験が再現されるのではという怖れが怒りへと変換されます。あるいは封じ込めていたはずの過去の体験(闇)を思い出すことへの怖れもあります。 逆に言えば封じ込めて無視したままの状態を(魂が)望まないからこそ、そのドラマを目の前に(繰り返し)創造するのだと言えます。

「正義の怒り」という言葉がありますが、正義が怒りにつながることはありません。人は「怖れ」によって怒ります。
このような時に単純に“自分の(知っている)正論”で相手を説得しても通じません。そこに見ているものが異なるので話がかみ合わないからです。むしろさらなるパニックや怒りを引き起こしたりと、ただお互いに混乱のみが生じてしまいます。
逆に今度は自分が他人からそのように思われる側でドラマを創造してしまう可能性もあるでしょう。起こっていることの構造的な理解がないと、この繰り返しは続いてしまいます。

全てに偶然はなく、相手もタイミングもドラマにおける各出演者の信念状況も、宇宙によって計算し尽くされた上で絡み合うように、つまりなるべくして現象化しているので、過去の経験(実体は記憶)に否定的に感じられるものがあったとしても裁く必要は全く無いと言えます。
正誤判定のバンカーに陥ると、虚栄や罪悪感の好きなエゴはしばらく喜びますが、ゲームの進行自体には著しくブレーキがかかる可能性があります。この迂回路はなるべく避けたいところです。

それよりも唯一存在する「今ここ」から、新たなパターンを創造していくことが望まれます。そうすることによって過去に経験した闇だったもの(そう思いこんでいたもの)も、光の経験として生まれ変わることが保証されます。
なぜならば光と闇は最終的には同じものだからです。同じものにその時々で別の名前を付けて分離ゲームをしていたのは、神ではなく人間の方だったのです。

闇は神や悪魔からの罰や嫌がらせで見せられているわけではありません。また油断してうっかり見てしまったのでもなく、全て自らの選択によって積極的に見ているのだと言えます。
世界には戦争や犯罪など、見るからに闇だとされるものが存在します。確かにそこには闇がありますが、その闇を闇で終わりにするのか別の側面にまで踏み込むのか、つまりそれを“どう認識するか”の選択肢を持っているということです。認識したものがそのまま自分にとっての現実となります。

後述するマザーテレサは、人が見るのも触れるのも嫌がるような汚れた人や病気の人、貧しい人に神(イエズス)を見ました。見たふりだけでは、あれだけの厳しい仕事を何十年もの間続けることは出来なかったでしょう。
認識したものが現実、結局これが全てであると言えます。神の視野からの普遍的な現実とか、地球上全ての人で共有納得できる現実とか、そういうものは存在しません。それを踏まえてこの生でどのような選択をしていくかになります。

たとえ今は闇が見えるとしても、それは光を見るための、さらにその先を見るための重要なステップになります。つまりそれをゆるすことによって、闇は闇のまま「光」としての側面を現すでしょう。

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