A. B1. B2. C. D.

 

 

2004.11

自力と他力

A

2-1 自立

ここで意図するテーマの一つは自立です。
「どこかの偉い人が言ったから」とか「みんなが言うから」「定番だから」との理由だけで外側から与えられたものを丸ごと飲みこんでしまうのではなく、一人一人が自らの探求と自らの納得において宇宙(神)を選択していくこと。
釈迦の絵の具やイエスの筆などを使用するにしても、既成キャラクターへの塗り絵ではなくて、白紙に自分のオリジナルな絵を描いていく道です。

当たり前のことのようですが、そのような発想が最初から無い場合も少なくありません。扉を開ける鍵は常に自分ではない誰かが持っていて、それを許可を得て借りてこなければ部屋には入れないという思いこみがあります。
また許可に関しては、そこに人間的な習慣や構図を「神」に当てはめようとしてしまうことがあります。千円払うよりも一万円払ったほうが十倍の特典待遇を受けるはずだとか、へりくだった態度のほうが相手(神)に受けがいいはずだなど、外側の体裁を整えることを条件にしています。
これらは自分の望みを神の望みであるかのようにすり替えてエゴを満たそうとした一部の権威者による企てによるものです。

神には肉体を含めた物理的な動き・変化には関心はありません。五体投地では飽き足らず穴を掘った地面に体を埋めてまで平伏しても、難行苦行で体をボロボロになるまで痛めつけても、スイス銀行を丸ごと献金しても、それによっていくらかでも対応が変わるようなことはないわけです。
形自体は全く見ていなし興味もないからです。「貧者の一灯」という言葉がありますが、神の見ているものは唯一心の動き、“思い”に関するものだけだと言えます。
ただし思いの「善し悪し」を裁いたり、許可不許可を司ることはありません。「長者の万灯より貧者の一灯」という区別はなく、ただ思いのみをみているということです。一灯を献じるに至った人も、過去には万灯を支持する経験を積んできたことに裏打ちされているのを知っています。
あらゆるタイミングに優劣はなく、ただ今ここで必要とされる神聖な学びのみが存在し、三次元上での時間軸における「前後」は意味を持ちません。
全てに対して扉は最初から開いています。障害となるのは扉に鍵がかかっているという自らの思い込みだけです。

人には漠然とした原罪に対する怖れ、つまり神なるものに対しての後ろめたさから来る「弱み」と切迫感があるため、特に目に見えない分野に関しては依存的な傾向に走りやすい面があると言えます。
そのためそれらしい人に大声で「これはこうだ!」と断言されると、(ときには喜んで)付き従ってしまうことがあります。またエゴをエネルギー源とした特典誘惑(あなただけが特別に救われる)や確信犯的な脅迫(「こうしなければ地獄に落ちる」「不幸になる」など)で不安を煽られる場合にも盲従傾向が強まることがあります。

話は少しそれますが、宇宙にはいわゆる地獄(罰を与えることを目的とした収容所のイメージ)と呼ばれる固定された領域は存在していません。ゆえに誰かによってそこに落とされることもないわけです。もちろん天国(楽園テーマパーク)の方も存在しないと言えます。基本は“無”です。
正確には「どこかに行く」という概念もないと言えます。今ここのみが永遠に存在しています。死“後”の世界という言葉がありますが、これまで使用していた肉体から離れ順調に成仏した場合、その肉体に宿る(生まれる)前から実は“一秒”たりとも経過していないことを思い出すでしょう。
ただ天国であれ地獄であれ、それがあると思い込む人にとっては見たいものが見えるようになっています。百人百通りのオリジナルな天国と地獄です。見たいというリクエスト(今の想念による選択)を宇宙は拒否しないからです。
もう一つは、人は他人の予言はできないということです。自分の予言だけができます。 鏡の前に立ったとき、そこには他人の姿は映らず自分の姿だけが映ります。地獄を話す人は地獄が見えているのでしょうから、自分が今は(自分が創造した)地獄に落ちている(錯覚ゲームの最中である)ことを説明しています。
煽り煽られるドラマも宇宙の采配によってもたらされる縁(魂の契約)によるものですから、一部分だけを見て善悪を糾弾する必要はなく、ただ原因と結果から創造されるものを体験しようとする魂の学びがあるということです。

何らかの外的権威にすがることによって、その傘下での安心感を求めようとするとき、結果は常に落胆に至ります。
権威者の資質がどうであるか以前に、誰であれ他人の最終的な責任を取ることは出来ないからです。宇宙に存在するものは、正直になるならばそれぞれが自分の課題で精一杯です。
他人のことなど構わないという意味ではなくて、三次元世界では相手の一分後のことを心配する前に、自分の一分後のこともわかりません。仮に「三日以内にあなたの苦しみを取り去ってあげよう」と約束しても、その相手があと三日生きている確証もなければ、自分にしても明日生きている保証がないのが実情です。
しかしそのことを踏まえた上で今ここでの「思い」を真摯に交換しようとするならば、宇宙(神)の理を興味深い角度から体験できると思われます。

自立によって誰の話も聞かないような排他的方向に進むことはなく、むしろそこにある自分にとっての必要なエッセンスを自由に受け取れるようになります。自らが主人公となっての取捨選択です。
逆に怖れを基盤として妄信的にしがみついているような場合には、他のものに対してヒステリックな反応をしてしまうことがあります。真実がどうであるかよりも、別情報によって今とりあえずの痛み止め(モルヒネ)効果を揺り動かされることを嫌うからです。つまり自分に何が必要なのかではなく、現状の変化を避けること(思考停止の維持)に目的が向いています。
他のものに目を閉じ耳をふさぐことや“仲間”の足抜けを許さないこと、あるいは“異教徒”と戦うことが信仰の証だと思いこんでいる場合、そこには自らの信仰対象が絶対のものであるかどうかではなく、絶対のものでないと自分が困るという事情があります。神は自分の「道具」扱いです。

実際には他を排することによって相対的に現在の信仰が深まることはなく、むしろ不安感が募るだけになるでしょう。他のものは次から次へと現れます。自分だけが正しく、他は全て愚かな間違いだと切り捨てるにはどちらにしても証拠が少な過ぎます。他のものにしても「それなりの事情(真実)」があるはずだと見た方が自然です。問題はそれなりの事情とは何かです。力ずくで無視することは、そうでもしなければやってられない自身の脆弱性を説明してしまいます。

自らの「ご本尊」に対して文字通り“聖域”扱いにして触れないようにするよりも、あえて疑ってみたり逆の立場からディベートすることの方が信を深めるには有効な手段に感じられますが、そんな不敬なことはとんでもないと閉ざしてしまうと探求はそこで頓挫します。これもご本尊に申し訳ないと言うよりも、今の思いこみが覆ってしまう可能性がとんでもないということです。
真面目な意図であるにも関わらず、そのことを怒ったり僻んだりするような了見の狭い神仏ならば信仰するだけの価値があるのかとも問えます。

自らのエゴを満たそうとするときに、顕在意識上ではごまかせても、その過程でどうしても内面から滲み出てしまう“良心”をブロックするために、(自分に都合よく編集した)「神」を利用するというパターンは戦争やテロなどにも使われてきました。わがままを表現するだけ表現して最終的な責任を「神」に押しつけてしまえば無敵です。
自分では深い信仰を極めているつもりでいながら一種の集団ヒステリーの中で暴虐を振り回すことを止められなくなるでしょう。「エゴ」という言葉さえも知らないままに突き進んでいることもあります。

また世界にはかなり強力な刷り込み(を通して学ぶシナリオ)の存在する地域も用意されています。たとえば女性に生まれただけで、いきなり過去世の悪因縁だったり性別自体が不浄だったりと思いこまされてしまうような環境もありました。性別の段階でアウト宣告です。余所から見れば信じがたいような内容であっても、そこでは実際に機能し社会の根幹を形成していきます。
生まれた瞬間から身近な親兄弟および社会や地域ぐるみでそう言われ続けてしまうと、自我が形成される以前からの念入りな刷り込みですから後の自助努力だけで迷妄を抜け出すには高いハードルが課せられます。
これは必ずしも過去の遠い国だけでの話ではなく、自分の知っている日常の世界においても「まさかこれが」と思うようなことも含めて実は相当数の刷り込みイベントが設置されていることに気づくことが出来ます。

たとえ目の前に自分がこれまで頼ってきた信念を引っくり返してしまうような新しい概念に直面するとしても、正視するのが苦しいほど否定的に価値判断してしまう過去の経験があったとしても、あらゆるものが神の構図に組み込まれています。
神の中の神の出来事であり、神以外の「どこか」は存在しません。ただ「一つ」があるだけです。それを踏まえて世界を見るならば、勇気を持って自分の扉を開けることができるでしょう。

→次へ