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2004.11

自力と他力

B

2-2 自力と他力

自立については混同されやすいところですが「自力」とは異なります。どちらかと言えば「他力」の方に分類されるでしょう。

自力というのは、文字通り自分が何とかしようとすることです。悟りを得るにしても人を助けるにしても、自我の欲求や算段で宇宙を動かせるという期待があります。筋書き通りの展開に執着しています。
だから根本は“頑張り”になります。難行苦行を含め、やること学ぶこと満載でゲートをクリアするための条件は山のようにあります。当然合格不合格を前提とした競争原理も働きます。

頑張るにしても、最初から一定の資格条件を要求されます。経文を読むなら文字が判読できなければなりません。つまり 肉体的精神的物理的知的経済的他さまざまな条件が一定のレベルに達していなければ、応募や予選の段階で落とされてしまうことになります。
また条件に達したとしても、どこかにもっと特別な秘密秘宝があるのではないかとか外側を探し回ります。誰かよりも先に進もう、あるいは勝とう(悟り争奪戦)というエゴにも支配されやすいのは、席が定数でチケットが売り切れるような錯覚(怖れ)があると言えます。ここでも人間的な習慣や構図を当てはめようとしています。

しかし冷静に考えれば怖れや争奪(に伴う想念)が繰り返された先に、本当の光や悟りが見つかるとは思われません。見つかるとしてもそれは差別主義の「見捨てる神」でしょう。経過に見合ったものが鏡として現われます。
奪った(奪える)ものは奪われる可能性があります。今はセーフでも、現状を維持できなくなったり、うっかり「神」の気に入らないことでもしようものなら自分も条件外通告で見捨てられるかもしれません。いつでも神の顔色を窺いながらビクビクすることになります。これでは自立にはなりません。
さらには自分が頑張って合格したのだという思いこみは、それなりの代償(ご褒美)が欲しいという執着によって特権意識や差別意識に変換され、外部へと表現されていくことがあります。そうしたエゴの拡張によっていわゆる「魔境」を一定期間体験する道へも導かれるでしょう。難コースが予想されます。

他力とは宇宙の流れに委ねること(信頼すること)を意味します。
全てに対して必要なものが必要なタイミングで現われていることを知っています。
ただしここでも誤解しやすいのは、「やってもらうのだから」と何もせずにただひれ伏してお願いすることではないということです。つまり「助けて」という意味ではありません。

高慢になるのを避けるのはよいとしても、今度は自らの愚かさをアピールしながら卑下懺悔し弱いふりをするのでは逆の極に振れただけの自己満足に過ぎなくなります。
「わたしなどどうせ凡夫(煩悩に束縛されて迷っている人)なのだから努力したって無駄だ」と、試す前から放棄するのは早すぎます。やっても出来ないのとやる前から出来ないのでは結果が同じでも得るものは異なり、後者だと「どうして出来ないのか」という気づきが抜け落ちてしまうでしょう。

自力は頑張ることだから、他力は単純に頑張らなければいいのだと理解すると、「頑張ればどうにかなる」を「頑張らなければどうにかなる」に変えただけなので、結局は結果(思い通りにどうにかする)への執着を伴った条件提示、つまり自力になってしまうでしょう。同じことを別の形でやっています。これは陥りやすいパターンだと言えます。
他力は「頑張らない」ではなくて、「ありのままでいる」という意味です。だから今のありのままが頑張ることからの学びならそれもありです。

「わたしなどはひたすら罪深く、卑小で申し訳ない存在です。神様とにかくごめんなさい」と言ってしまうのは、この道を歩んだ過去の優れた先人においてもなかなか払拭されなかった傾向の一つだと言えます。それほど根深いところに刺さるような情報操作が存在していました。
神と人間との関係を、怖い教師と怯える生徒になぞらえたり、裁判官と犯罪者のようにとらえてしまうのは刷り込みに過ぎません。
そもそも「上下関係」という発想自体から錯覚なのですが、神をどこかの誰かとして分離している間は、これはなかなか受け入れられないところでもあります。そんなことは考えるだけでも神への冒涜だと怒り(怖れ)を呼び起こす場合があるかも知れません。
あえて分離のままで例えれば「親子」に一番近いと言えます。上下関係ではなく、親の役割、子の役割としてお互いを必要とし合う関係です。

誰かを愛したいとか助けようとする思いは尊いものであり行動は神聖なものですが、「やるのだから助けられるはずだ(神仏だって思い通りに手を貸してくれるはずだ)」、「このような展開でこうなるはずだ」という結果や起承転結に対する執着は迷いと苦しみを引き起こしきます。
エゴはその狭い視野での自分の都合と相手の都合を勝手に同一視しようとしますが、結果は思い通りにはなりません。予定が狂っていく苛立ちの中で言うことを聞かない相手を非難し、神を怨み、世界を悲観することになるでしょう。そして最後は自己嫌悪です。

宇宙は別にわざと天の邪鬼な対応をしているわけではなく、今ここで本当必要なリアクション(愛)をとっていますが、自我の期待フィルターが障害になると、為されていることには気がつかず、為されていないことばかりに目が向いてしまいます。つまり神に見捨てられているように感じるわけです。

他力とは「結果に関しては宇宙の理(慈悲:人間智では理解できない大きな視野での良かれがなされていること)を信頼します」という意味です。
自我の視野からの基準でしかない「良かれ」(怖れがバックグラウンドにある)を自他に押しつけたり、タイミング操作しようとするものではありません。

つまりやれるだけをやって結果には執着しないことです。一見すると逃げや言い訳のように感じられますが、ここでの重要なポイントは、どんな結果になるのかではなく、執着しないことでもなく、やれるだけやることでもありません。
やれるだけをやっている今ここにおいてどんな思いを経験するか。これが光となり波紋として宇宙に広がっていきます。
宇宙(神・「わたし」)は人間がこの三次元世界上に何を創造するのか自体には関心はありません。創造する過程で生じる思いに関心があります。 もちろん思いの「善悪」ではなく、思いそのものです。

最初に「どちらかといえば他力」と書いたのは、他力の道を“ご本尊”に祭り上げるとまたジャンル分け、所属分け、価値判断等のとらわれループに陥るからです。形を追い求めることは本質を見失います。
他力はある程度(あるいは徹底的に)自力を体験してからではないとその意味を掴めない部分があります。「望みなし」の境地を知識だけで得心するのは難しいかもしれません。だから実験しつつバランスを取りながら経験することで生かされるものがあると思われます。

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